人もネコも、友だちっていいな

くろねこのロクが、
6つの家族にごはんをもらいながら
毎日を暮らしていました。

「ロク」っていうのは、
いつもごはんを 6杯 食べるからついた名前なんです。

6つの家族が同じ時期にバカンスに出かけることが
ないとは言えないですよねー。
ロクの身の上にも、そのないとは言えない確率が
的中してしまったんです。

ロクはその間
どうやってごはんを食べていればいいのでしょうか?

それからが
友だちっていいな
と思わされるなりゆきになるので安心してください。

しかも、絵がとても美しくて、
街も山も野原も
人も猫も
繊細に描かれていて
絵をたどるだけでも何度もページをめくりたくなります。

 

逃げても、ほんとうに行きたいところへは行けないけど

人間が集まるところ、いじめがある。
ほとんど本能なんだと思う。
だれかを疎外して多数が安住する。

作中、
疎外されたら、
近づこうとしちゃだめだよ、逃げたほうがいい、
傷つくまえに、
と言われる。

学校で同じ年の人たちの集団の中にいるのが
たまらなくいやになっている主人公たち。
他の人と違うことをやったり言ったりすると
はじかれる。

傷つかないように逃げたほうがいいんだけど、
逃げることではまだ、
ほんとうに行きたいところへは行けない。

そこから先どうするか、
考えなきゃならないときが来る。
子どももおとなも。

 

静かに淡々と信念を貫いている人

わかってくれる人にわかってもらえばいい、と思っても
つい他人の目を気にしてしまうのが凡人の定め・・

静かに淡々と信念を貫いている人っていうのは、
ふだんは目立たない存在なのです。

なぜなら、主張しないから。

派手な花を咲かすことも、
甘い実をつけることもないけれど、
いつも変わらずそこにある、
ものなんです。

そういう人にわたしもなりたい。

あ、『伝説のエンドー君』の「エンドー君」は今は
そういう人になっている・・のではないでしょうか。

 

人をばかっていうやつがばかだ

ひと夏を
小麦畑で働く人たちと過ごす女の子サマー。

いつもの生活では出会えない人たちと一緒にいると
今までの自分が、狭い枠の中しか
見ていなかったことを感じる。

だまされやすい人はだめな人だと思っていたら
「だまされやすくて何がわるい?
だまされなかったら楽しくないだろうに。」

と言われる。

また他の人は
「人をばかっていうやつがばかだ」
と言う。

こざかしくて要領のいい人の言うことが
幅を効かせがちな日常で
忘れそうになっていた価値観じゃありませんか。

「人をばかっていうやつ」の顔色を
うかがって生きなくたっていいんだ!
って、気づいて楽になろう、
子どももおとなも・・

 

ごんぎつねは ぐったりなったままうれしく・・・

新美南吉の「ごんぎつね」に
スパルタノート版というのがあって、
それが南吉自身が書き上げたものだということを
知りました。

山根基世『朗読読本』で。

描写がより素朴な印象になっていると。
そういうことをあとから知ると
スパルタノート版には
ここがそういう箇所かもしれない・・
と思うところがたまにあるようです。
ごく普通のふとしたところ。
農村の情景をあたりまえに書いたところ。
いま本が手許にないのですが・・

そのもっとも大きな例が題名に挙げた
最後の描写なのです。

ごんぎつねは死んでしまうのですが、
かろうじて救われる描き方なのです。
作者の目に映っていた風景とか
心の中から湧き出てきた言葉の
発露がじかに読む人の心に染み込んでくる
っていうことは
感動の深さ大きさが違うんだなー
と思います。

鈴木三重吉が「赤い鳥」に載せるのに
手を加えたことは責められないとしても、
元の版はこれ、
というのはずっと大切に味わっていかなけれなならないと思います。

 

ヘンなことが好きなのはすばらしいことかも

インターネットで人探し、って今ではふつうのこと。
テスもそれをやってみた。
探し当てたのは、おとうさん。
そしてやってきたのは、驚くような変わった人ではなく、
ふつうにジーパンとTシャツを着たやさしい声の男の人。

オランダの観光地・テッセル島に家族で滞在していた
男の子サミュエルが、島に住むひとつ年上の女の子テスの
おとうさんとの出会いの7日間に
居合わせ、巻き込まれ、重要な役割を果たしていく。

テスは自分のことを「ヘンなことが好きな子」と言う。
だけど、みんながしたがらないことをするのが
いつも「ヘン」とはかぎらない。

たとえば、近くのおじいさんがかわいがっていたカナリヤが
死んだとき、いっしょにおそうしきをしてあげることとか。

サミュエルは、死んだカナリヤを
だまって見つめるおじいさんの姿を見て
今もレムス(カナリヤの名前)が好きなんだなあ
と思う子。
テスは、そういうサミュエルといっしょに
おそうしきをしてあげる子。

おじいさんの家には動物の写真がいっぱい貼ってある。
1枚はゴリラとウサギの写真。
ゴリラがひとりぼっちになったとき、
飼育員がウサギをペットとして与えたら
えさも分けあって食べるようになった2匹。
「だからわしはまだ生きてるんだ・・」
とヘンドリックさん(おじいさんの名前)は言う。

テスが生まれて初めておとうさんと会うストーリーの間に流れる
こういう挿話が、
登場人物や話を温かいものにしていると思う。
その温かさが自分に知らず知らずにしみこんでいたのを
読み終わったときに感じます。

絵は『ミリーのすてきなぼうし』のきたむらさとしさんでした。

 

ファンタジーにはいりこめない体質の人へのヒント

わたし自身、
「ファンタジーってはいりこめないから苦手」と
思ってきました。
だから、本屋大賞の『鹿の王』も
たぶん読んでも続かない・・と考えていました。
その作者の上橋菜穂子さんを含む3人
荻原規子さん・佐藤多佳子さん
の鼎談の本を読んでみました。
荻原さんの作品もどちらかというと苦手カラーでした。
佐藤さんの作品は『しゃべれどもしゃべれども』をはじめ
わりと受け入れやすいほう・・
だから、どんな考え方の人たちなんだろう?
という興味から手にとった鼎談の本。

結果、
ああ~、そういう考えで書いているなら、
そのつもりで読んでいけば
わたしにもじゅうぶん受け入れられるんだな~
なんて、思わされました。

その要素は
1、ちょっと前の時代に、
あの世とか他界とか異界とかを
けっこう日常に意識していたのと
共通の感覚でいいということ

2、生きている方が面白い、ということを
論ではなく具体的なシーンの肌触りで伝えたいんだ
という気持ちなこと

でしょうか。

これまで、上橋さん荻原さんの作品は
読み始めても、
な~んかあまりにも想像の世界のことに思えて
それもいいけど、しょせんは作者の妄想だから・・
わたしはいいや・・

なんていう気分になって
読了しないことが多かったんです(苦笑)

作者たちの思いを知ることによって
違う受け入れ方ができそうで、
改めて読んでみたいな、
と思っています。

あ、それと、佐藤さんの「サマータイム」の
美音ちゃんのキャラクターについての話を読んで
これはわたしとおんなじ性質かも、と思いました。

「自分できちんと考えないと一歩も動けない、
だから周りからとろいと思われちゃう」
っていう。
お恥ずかしい話、大人になってもこれは変えられないのです。

 

ずんずん読めて、明治の空気感にひたれて、意外な展開がいっぱい

ちょっと太めでとろめの12歳の男の子 大和が
茶碗の中のお茶に映った見知らぬ男の顔を
見たことから、明治時代に迷い込んでいきます。

大和の先祖は、梅枝(うめがえ)家といって当時、男爵。
彩子、勇二郎、新子という3人の子がおり、
どうも大和はこの勇二郎と
入れ替わってしまったようです。

彩子の婚約者・葛城伯爵は美男で一見完璧な人だけど
梅枝家の屋敷にいつの間にか忍び込んでいたり
壁をすりぬけて消えてしまったり
怪しいところがあります。
しかも、腕には謎の傷を負っている。

そんなとき、勇二郎の妹・新子が何者かに誘拐される。
大和は、以前 梅枝家に仕えていた車夫の簑吉とともに
新子を救出に向かうが、
突き止めた場所はなんと、葛城伯爵の屋敷だった。

新子を見つけ出し、
ナイフを振りかざす伯爵に簑吉が立ち向かうと、
伯爵の口は耳まで裂けている・・

小泉八雲『茶碗の中』はあるところで話が途切れているが
それはなぜなのか、ここで明らかになる。
また、簑吉もただの車夫ではありませんでした。

え~、そうだったの?
というどんでん返しがいくつも用意されていて、
最後まで一気に読めます。

ミステリーであって
歴史ドラマであって
日本人の心や美しい日本語に出会う文学であって・・
というエンターテインメント佳作だと思います。

 

クサヨミ~植物の声が聞こえる少年の体験

植物や動物や風・水などが発するものを
感じ取ることができる力が
備わっている人とそうじゃない人がいるとしたら。
自分はどっちかな。

「クサヨミ」は、植物から何かを感じ取る人のこと。

中学に入学したばかりの剣志郎は、
学校にある古いタラヨウの木に触れると
その木が過去に遭った事実が見えることに気づく。
あるとき、炎に包まれる学校と、
桔梗という名の寂しげな少女の姿が見えた。

過去に自分もクサヨミであった理科の先生にそれを見抜かれ
雑草クラブに誘われたことから
剣志郎は、自分がクサヨミであることを知る。
さまざまな植物に触れて、
見たこともなかった光景の中に立っている自分を
感じるようになる。
さらにパワーが高まったときには
植物が材料になったタオルや畳に触っただけで・・。

同じようにクサヨミである2年生の希林とともに
植物からのエネルギーを感じつつ
不可解な経験もかさねていく。

そして、クサヨミ能力全開のとき
タラヨウの木に触れたために
学校を包む炎の真っ只中に入り込んでしまう。
学校の記念誌から、
そのとき校舎は全焼したことがわかっていた。
そこにはあの少女もいて
大勢の人とともに逃げ惑っていた・・

21世紀空想科学小説 と銘打ったシリーズの一つです。

 

自分が変わる読書術を紹介した本

「庭の木に鳥がとまっている」
と思っていたのが、鳥類図鑑を見たあとは
「庭の木にシジュウカラがとまっている」
と思うようになる。
つまり、本を読む前と後で
目の前の世界が違って見えているということです。

それと、本を読むと自分がわかることがあります。
読んでいると、著者の考え方に対する自分の考えを持つし、
登場人物と自分との違いを感じたりします。

本好きな人はともかく、
本なんて読まないという人に「へ~」と思ってもらえたら、
というねらいも持った本です。

「読書は失敗のシミュレーションでもある」
っていう言葉も書いてあります。
現実もひどい世の中だけど、
この本の中の状況に比べたら
まだマシなのかもしれない、と感じたり、
自分の人生はかなりひどいけど、
もっとひどい境遇もあるよな~、と感じたりすると
少し開き直る効果があるかも。

筆者永江さんが毎年大学生15人ぐらいと一緒に
本屋めぐりをしている話もよかった。
学生たちは『ぐりとぐら』や『ちいさいおうち』などを手にとって
「子どものころ大好きだったんですよ」
なんて話しているという。
ずっと前に読んですっかりその存在を忘れていた本に再び会ううれしさ、
覚えがあります。

本ってやっぱりいいもんだな・・
と、改めて本への感謝と意欲をかきたてられます。