ひとりの人間の中にはいろんな自分が住んでいるー『オバケはあの子の中にいる!』

4年1組橋本真先。
転校生、鬼灯京十郎。
京十郎には、オバケが見えるというひみつがあるのを
真先は知っている。

真先の幼稚園のときの友だちミナコちゃんと
久しぶりに会ったら、
同じ顔をした子が横にいて、
まったく同じことをまったく同じ声で同時にしゃべっていた。
おかしいなと思っていると1人が
公園のトンネルの中に入ったまま消えてしまった。

オバケが見える転校生、鬼灯京十郎に
その謎をといてもらおうと、
真先は2人のミナコちゃんに会った公園へ向かう。

子どもだって大人だって
オバケから逃がれることはできないのだ。

図書館では一人一人がとくべつなんじゃ

たきぎを集めるおじいちゃんと暮らす女の子ステレ。
それも、目に見える友だちをだけでなく、
目に見えない友だちも。
誰もが、それぞれのお話を持ってる。
おじいちゃんからそう聞いたステレは、
そうだ! 図書館って、世界中を見る「目」みたいなものだって気づきます!
そうして何度も図書館を訪れているうちに、
図書館が、音にも満ちあふれていることにも気がつきます。
それは、読んでもらいたくて待ちきれない本たちが
ささやいたり、ページをめくったりする
小さな小さな音でした。
今までひとりぼっちだと思っていたステレは、
自分はもうひとりぼっちじゃないんだ! と感じました。
お話したがっている友だちに囲まれていたからです。
ステレだけじゃなく、大人も子どもも、
なんとなく周りからわかってもらえないと感じたことがある多くの人、
一人になりたいと思ったことがある人、
また、さびしいと思ったことなんかないという人にさえ、
自分が置かれた場所を改めて発見してしまう物語です。

この世の中どうしようもないこともある 『小川未明童話集』

「赤いろうそくと人魚」は有名だから読んだ人は多いかもしれない。

けど、小川未明はほかにもたくさんの童話を書いている。

角川春樹事務所発行のハルキ文庫版『小川未明童話集』の
巻末エッセイで
森絵都さんが書いているように
「淵にはまる」という例えがぴったりくる
未明ワールド。

人の力ではどうしようもないことが
この世の中には起こるんだ
と思い知らされるお話も多い。

切ないお話。
かわいそうなお話。
多い。

筆致が柔らかくやさしいだけに
なおさらに哀しくかんじられるお話の中の空気。

弱い人、貧しい人に
太陽のではなく薄くて清い月の光を当てたようなお話の世界。

子どものとき読んだのと
大人になってから読んだのとでは
違った感じが残るでしょうけれど、
これを読む人が増えると
相手の立場を思いやる人が増えるんじゃないでしょうか。

ハルキ文庫の千海博美さんの装画挿絵すてきです。

下手くそな字で書かれた謎の手紙を出したのは? 『おともださになりま小』

『おともださになりま小』なんて
まちがった字を書くのはだれでしょう?
1年生?
それもどんな1年生?

ハルオは朝、学校へ行くとき、
いつもケンタとリョウくんと3人で行くんだけど、
その日に限って、2人は先に行ってしまった。

ハルオは、「待ってー!」
と呼びながらいつもの道を
走って2人を追いかけていると
なんだかまるで違う道のように見えました。

それでもやっと学校に着いたのですが。

その日ハルオに起こったことは、
それから何日かして
やまびこ小学校の子どもたちみんなに届いた
謎の手紙によって
解き明かされることになります。
手紙は、とても下手な字で書かれていました。

アメリカで起こった実話? それとも?・・・『大きなたまご』

ネイトが、めんどりの1羽のようすがおかしいのに気付いたのは5月ごろ。
そして、6月半ば、その奇妙なことは起こった。
かわいそうにめんどりは、たまごからかえった生き物を見て
すっかりきもをつぶしたようでした。

そのことが起こった場面を読み返していると、
また細かく読んじゃうくらい、
ネイトやとうさんやチーマー先生や
めんどり、当の生き物のようすが
生き生きと描かれています。

チーマー先生は、ワシントンの国立自然博物館のケネディ博士あて、
電報を打ちます。
「セイゴイチニチ、イキタトリケラトプスアリ、
シキュウオイデコウ チーマー」

見識と寛容と見守る心を持った大人たちに守られ、
その生き物とネイトは新しい展開へと進んでいく。

アメリカで起こった実話?
それとも?

この大きな木を生やせる心とは 『おおきな きがほしい』

目を閉じます。
すると、4人がかりでないとかかえられないような
太くて大きな木が現れます。
はしごをかけて登って登って行きます。

途中には洞穴があって、
その中にもはしごがずんずん続いています。

枝が3つに分かれているところに
小さな部屋がしつらえてあります。
すみっこには台所があって、水もでるしコンロもあります。
テーブルが一つといすが一つ。

カケスやヤマガラやリスたちが訪ねて来るし
窓から遠くの山や雲や畑が丸見え。

春も夏も秋も冬も
なんてすてきな場所でしょう。
部屋の細部を描いた村上勉の絵が
想像を掻き立てること掻き立てること!

主人公のかおるでなくたって
だれだってこんな木がほしい。
そして木の上にあるこんな部屋がほしい。

この木を生やせる、そういう心を持って毎日を送りたい。
そういう想像は、
いやなこと、つらいことだらけのこの世の中を生きる
大人にこそ必要だな・・・。

スケッチブックに大きな木の絵と
枝に作る自分の部屋を描いてみよう。

鎌倉で打ち首になったある盗人の記録から 『馬ぬすびと』

源頼朝が鎌倉に幕府をひらいてから7年後にあたるある夏の日、
九郎次という馬ぬすびとが由比ガ浜で打ち首になった
という記録が、
寿福寺の文庫に残っているという。

その記録はごく短いものであろう。
あるいは、打ち首になったことだけが書かれたものかもしれない。

けれども、九郎次という男が存在したことは
確かだ。
九郎次が、日本のどこかで生まれて育ち、
馬を盗むだけの動機を持って実行に移したことも
確かだ。

この『馬ぬすびと』は、
きっと九郎次という男が
こんな境遇だったにちがいない
と読む者を納得させるストーリーだ。

馬どころで名高い陸奥国の水呑み百姓。
9人きょうだいの末っ子で、上の8人はことごとく死んだ。
死にそこなった九郎次がどんなふうに育ったかは
まあ、考えるまでもないことだ。

そんな暮らしをして、
当然ふるさとが恋しいなどと思ったこともないが、
南部富士といわれる岩手山のすがた、
そして、野馬のすがただけは
思い出すと胸の血がわいてくるほど恋しい。

九郎次は、箱根丸という馬ぬすびとの仲間になる。
箱根丸とて盗人になるような男ではない。
辛い苦しい目にあわされつづけたあげくにそうなったのだ。

日本中、おなじような者だらけ。
その上におっかぶさっているのが、天下をとっているやつとその仲間だ、
と九郎次は思う。

幼いころから夢に見るほどすきな馬。
夢のほかにはよろこびのない世の中。

九郎次は、夢のために命を捨てても惜しくはないと思うようになる。
自分がふるさとでこのうえもなく愛した馬が
いくさで人殺しに駆り立てられている。

「馬を盗むのは、馬をときはなしてやるためだ。
夢をまことにするところまで
追って追っておいまくるのだ。」

「馬ぬすびとがぬすびとか、
頼朝大将のほうがぬすびとか、
いつかわかるだろう。」

その論理にいつの間にか読者は共感しているだろう。
歴史の中の無名の人たちを
その息づかいや表情や声とともによみがえらせてくれる物語だ。

作者 平塚武二は「赤い鳥」同人。
絵は太田大八で、
子どもの九郎次や、馬との日常や、いくさの場面を
その空気とともにわたしたちの目の前に見せてくれています。

伝説の中にいる先住民と犬と少年が、今も生き生きと 『犬ぞりの少年』

「戌年」「冬」にちなんだお話を読んでいます。

表紙を見ると、楽しい犬ぞりレースのお話か、と思う。
ただ、少年ウィリーがレースに出る理由は、
税金の滞納を払うため。
まあ、そこまではよくある話かもしれない。
それに賞金を生活の何かに充てようとする話も
アメリカが舞台の話にはけっこうよくある。
けれどもここには、先住民族がたどった歴史も加わっている。

町のレースで常勝を誇ってきたのは先住民ストーン・フォックス。
ちなみに原題は『ストーン・フォックス』という。
ロッキー山脈に伝わる伝説がもとになっていると、
あとがきにある。
きっとストーン・フォックスのような男が実在しただろうと
訳者・久米氏は言う。

農場を営むおじいちゃんと暮らすウィリーは、
「そうしたいと思うだけでなく、かならずそうするという意志が大事だ」
とか
「質問するのはいいことだ」
とか日ごろ教えられている。

教育とは、個人が個人に与える影響力のことだ
と、どこかで読んだが、こういうことを言うのだろう。

困ったときに思い出して
活路を見つけるのに力になることを
与えてくれる人や本があるといい。

で、犬ぞりレースは、
見物のだれ一人として勝つと思っていない
必死の10才の犬と10才の少年が、途中まで1位だ。

必死すぎる一匹と一人。

作者ガーディナーが原作のあとがきに書いたように
創作ではあるが、結末のシーンは、
ほんとうにあったできごとだという。

日本語訳のタイトルは『犬ぞりの少年』で
たしかに少年ウィリーが、
おじいちゃんと農場のためにしたことの話なんだけれど
表紙で喜々として疾走する犬・サーチライトが演じる役割が
この物語の白眉だ。

楽しい犬ぞりレースのお話、ではない劇的な結末になる。

 

子どものときのふしぎな体験は多いほうがいい

小学生のダイキが兄といっしょに、
久しぶりに沖縄のひいばあちゃんの家を訪れた。
外で遊んでいたある日、ふしぎな少年に出会うが、
なぜか少年の姿はダイキにしか見えない・・
少年といっしょに迷い込んだ未知の世界に
いた人たちはだれなのか?
ふしぎな体験は子どものときにたくさんしたほうがいい。
いっぽう、おとなになってからもふしぎな体験をできるようでありたい・・

 

犬どろぼうを計画したけど

「犬どろぼう」をしなければならないのは
どんなときか?
確かに悪いことだけど
「邪悪」ではない動機として
どんなことが考えられるでしょうか・・

そんなのあるわけない!
という声も聞こえてきそうですけど
これが小学校中学年向けの本だということを
考慮に入れるとどうでしょうか?

犬どろぼうを計画する少女としては
正真正銘の真剣勝負なんですが
大人の感覚では、
ほほえましい面もある成り行きです。

家をなくして車で暮らすはめになった少女ジョージナが主人公。
アメリカが舞台。

職を失った中年男性が車で暮らさなければならないという
映画を最近見ました・・『ダブリンの時計職人』。
家を失った人が車で生活する、っていう境遇が
あるようです。
日本ではどうなんでしょうか。

ジョージナが盗んだ犬の飼い主の女性カーメラには
家族とあまり仲良くない事情があるのが垣間見えます。

なんとなく現れてジョージナを助けてくれるおじさんムーキーは
昔けがで手の指を2本失ったらしいし
家がなくて自転車で移動しながら暮らしているらしい。

この物語を通してわたしたち読者に伝わってくることは
少女が犬どろぼうをしたことが悪かったと反省するとか
謝礼金を目当てにするなんてたちが悪いとか
そういう教訓とかではないでしょう。

みんながそれぞれたいへんな境遇を背負って生きていることが
知らず知らずに少女の心に浸透していくんですね。

子どもなりに
それまで接したことのなかった種類の人たちと出会うことによって
いろんな人がいるんだと感じる。

それぞれの人が、違う形の思いやりを持っていることを感じる、
そういう物語なんじゃないかと思います。

おとなになっちゃうと麻痺しちゃう柔らかい吸収力で
相手のピュアな部分を、ジョージナ自身が引き出していく
っていうこともあると思います。

おとなになってからも、相手のいいところを出してもらえる
付き合い方をしたいな、と思わされます。