この本を2週間も持ってていいんですか? 『希望の図書館』

表紙に黒人の少年が描かれているので、
人種差別系の話なんだろうなー と
予想され、
ちょっと読み始めるのが億劫になる面あると思う。

まあ、人種差別系のことは物語の根底に
流れてはいるんだけど、
それを覆ってあまりある空気があるので
私にはすっきり読めました。

シカゴが舞台で、南部アラバマから来た
少年ラングストンのことを
南部のいなかもの とからんでくるワルガキたちもいるけど。

彼ラングストンは賢く、そんなワルガキを
父さんに言われたとおり、
相手にしない。
図書館で借りた大切な本を破られるまでは。

最初にシカゴ公共図書館の立派な建物に圧倒されて
入り口に立ち尽くしていたラングストン少年に
「ご案内しましょうか」と声をかけたのは、
司書らしき女の人。
「本を扱う世界の人は、偏見から自由である」

「どれでも好きな本を、借りられますよ」
と、女の人はやさしく言った。

その日、ラングストンは閉館時間になるまで
夢中になって
詩の本の言葉を追いかけて家に帰り、
次の日、いよいよ自分の貸出カードを作り
本を借りたのです。
そのとき言った言葉が
「この本を2週間も持っていていいんですか?」
です。

それは、自分と同じ名前の詩人が
書いた言葉で満たされた本で、
ラングストンは、
ふるさとを思い出してせつなくて
先を読み進めなくなるくらいだったのだ。

彼には詩人がマジシャンに近いように思えた。
だって、
自分の心から、自分でも気付いていなかった言葉を引き出してくれるから。

それまで、学校から帰って部屋に
1人きりでいるのが嫌だったけれど
初めて
ひとりぼっちがうれしかった。
彼には本があったから。

物語の終わりのほうで
本のことを人に話すことで
互いを近く感じる日がくる。
友だちと言える相手を見つけるのだ。

ラングストンは、詩の本を読んでいると、
だれかがぼくだけに話しかけている感じがする
という。
ぼく以外のだれかが、
ぼくのことをわかってくれている感じがすると。

それまで、本を読むことなんて
男の子がすることじゃないと言っていた
ラングストンの父さんが、ある日
おれを図書館に連れて行ってくれ
と言った。
それも、土曜日の買い出しの日に
きょうは寄るところが一つ多いから急げ
と、ラングストンを急かして恥ずかしそうに。

天国に行った母さんが導いてくれたすばらしい場所。

ラングストンが
ラングストンという自分と同じ名前の詩人と
自分自身と
実は苦しみや悩みを抱えて生きていた友だちと
出会った場所。

本、
図書館を建てるのに尽くした人たち、
そこで働く、本はすばらしいって知らせてくれる人たち、
そういうものに出会えるのが図書館なんだ。

ささえてると思っていたらささえられていた~『口で歩く』

あなたは、他人にささえられていますか?
と聞かれたら、
「?」
と、一瞬答えにつまるかもしれない。
はっきりささえられている部分はここ、
と意識することは普段あまりないもんな。

理屈では一人で生きてるわけじゃないって思っても。

あとがきにある。
生まれつき目も見えず口もきけず、手も足も動かせない少年。
母はいつも話しかけ、
姉は絵本をたくさん読んでやり、
父や兄は外へドライブに連れて行ったりしていた。
少年が短い一生を終えたとき
家族は、
それまで少年をささえていたように思っていたが
自分たちがささえられていたことを知る、
と。

「口で歩く」タチバナさんは、
歩けないので、
長い足のついたベッドのようなものでたまに外へ出かける。
そうして、だれかが歩いてくるのがミラーにうつったら
その人に話しかけて車を押してもらって移動するのだ。

その日最初にミラーにうつったのは学生さんのようです。

「すみませーん!」
と声をかけると、初めはいつもそうであるように
びっくりした顔で立ち止まりました。

いやな悲しい思いをすることもあるけど、
出会いに感謝する良いこともある。

誰もが、まわりにいる大ぜいの人たちとつながって
ささえ合う輪の中で暮らしている。

足で歩いていると気付かないまわりのひとの心の声が
口で歩くタチバナさんには、
聞こえやすいみたいです。

なんという名前なのかだれも知らない 『熊とにんげん』

名前なんかだれも知らないからみんなが「熊おじさん」と呼んでいた。
友だちが2人いた。
熊と神様。

ゆっくりと、いつも同じ、ひと呼吸に3歩の足取りで歩いていった。
いなか道にとけこんで。

角笛を吹いた。美しくやさしい音色。

太陽、嵐、雨が、熊おじさんの顔に数えきれないひびやしわを刻みつけ、
髪は白くなった。
それでもひと呼吸に3歩の足どりで、
おじさんと熊は歩いていた。

形は違っても、実は自分も同じだ、と思う。
そして、それでいいんだ、と思う。
自分のやることを黙々とやる。
疑わずにやる。
ってこと。

日がすぎ、年が流れると
命が終わるときが来る。
自然と。
そういうとき、木々に咲いた花を
「今年がいちばんきれいなんだ」と感じる。

今も、よく聞き取れる耳を持った人なら
おじさんが吹いていた角笛の音を聞くことができる。
それは何かに似ているのだ。

読んでいるうちに、宮沢賢治の世界ともつながることを感じる。
トミー・デ・パウラの『神の道化師』 だったかな?
のことも思い出しました。

たくさんの子どもの本を訳した上田真而子さんが、
いちばん好きな作品だという『熊とにんげん』。

強い言葉は何にも書いてないのに
生き方に示唆を与えてくれるとか
弱くなる心に勇気を与えてくれるとか
そういう作品です。

8月6日の夕方、くすのきの下で 『かあさんのうた』

8月6日の夕方、作者はもんぺをはいた女学生として
広島近くの村にいました。
そして、町から狂人のように泣き叫びながら逃げてきた
一人の母さんを見ました。
燃える町の中で、ぼうやとはぐれてしまったのです。

作者の大野允子さんが、
今も道のほとりに立っているの見るたび、
「この木は、なんもかんも、知ってるんだな」と
ため息を吐くという、樹齢何百年もの巨大なくすのき。
その下で、あの日起こったであろう
数多くのできごとの中のひとつのおはなしです。

大野さんの作品の中で
いちばん短いのに、いちばん多くの人に読まれてきた気がするという
『かあさんのうた』

「うた」とは、
くすのきによりかかった女学生が
まいごのぼうやをだいてうたった子守唄でした。

くすのきは、
「ぼうや、よかったな。
かあさんに、だかれて・・・いいな。」
と言いながら、からだをふるわせていました。
「かわいそうな、ちいさな 親子・・・。」

朝が来て、くすのきは、
自分によりかかっているちいさな親子が
まるで生きているように
金色の日の光にてらされているのを見ました。

くすのきは、目をつむれば
あのうたが聞こえてくるような気がして
今もくろぐろとした大きな影を夜空に投げて
そこに立っています。

生きてるかぎり学ぶ、人それぞれの学び方で 『こんにちはアグネス先生』

舞台はアラスカの小さな村。
学校は一つだけで先生は一人きり。

そこに来たアグネス先生によって
子どもたちと村の人たちが
「学ぶって楽しい」
と感じるようになるまでが描かれます。

アグネス先生は、昔話をつぎつぎに読んでくれる。
大昔の人たちが、こんなことを思いつくなんてすごいなあ、と子どもたちは思う。
先生に本を読んでもらうと、物語の中にいるような気持ちになって
読むのをやめると夢からさめたようにショックだ、と感じる。

耳が聞こえないからと当然のように学校に行かないままだった
ボッコが「学校に来なさい」と言ってもらった。
そうしてだんだんと
村の人が手話を勉強するようになった。
ほかの勉強がぜんぜん苦手な子が、
なぜか手話を覚えるのがとても早いっていうこともあった。

学校は子どものためだけにあるのではない。
人は生涯、勉強を続けなければならない、とアグネス先生は言う。

サケがたくさんとれたら、3桁の足し算ができると合計何匹とれたのかわかる。
学校でアグネス先生から習ったことが、生活のあちこちで関係ある。
学校なんか、先生なんか、と言っていた村の大人たちも
だんだんと変わってきた。

それまでは目もくれなかったまわりの世界や
遠い世界のことまでも見えてくる気がする。

アグネス先生は違う学校に移って行ったけど、
たぶん夢を持ち続けてそれに向かっていけば、
いつかは夢がほんとうになるって思うところまで
子どもたちは変わった。

本によって、学ぶ楽しさによって、
人は心の中に希望をともして生きて行けると再認識し、
口の両端があがる読後感です。

小さな命、クワガタを生かしている自分 『クワガタクワジ物語』

2年生の夏至の日に
家の近くの八幡さまの森にあるクヌギの木でつかまえた
3びきのコクワガタ。
太郎くんは、それまでがんばってもがんばっても
つかまえられなかったクワガタを一度に3匹もつかまえて、
飼うことになりました。

名前だってつけました。
お兄さんらしく落ち着いているように見えるのがクワイチ、
ちょっと小さめなのがクワゾウ、
いちばんあばれんぼうなのがクワジ。
きっと3兄弟に思えてならないのでした。

つかまえたときのことや
3匹が育ったであろう幼虫時代やさなぎ時代のことも
それから何度となくお母さんといっしょにお話にして
話したり話してもらったりしました。

クワガタの家として用意されたのは大きな樽。
「第一クワガタマンション」と名付けられて
3匹で飼っているうちに、ほかのクワガタも加わったりして
にぎわいます。
学校にもクワガタを連れて行ったんですよ。
3兄弟のクワガタ、は家の中を歩き回ったりしながら
樽の家で元気に生きていました。

めんどうをみて冬越しもしました。
自分以外にたすけるもののいない小さな生きものを
たいせつに育てる様子がとても尊いです。

家出したクワゾウが帰ってきたときのことは、
なにがなんでも、たくさんの人に読んでほしい場面です。
124ページから126ページにかけてです。
涙なくしては読めません・・・

本能に支配された生きものたちの行動を
「どうしてか」
と考えるのは人間の勝手のようではありますが
やっぱりそれも含めて
自然界の流れなんじゃないかと思えます。
また、そういうふうに考えられる温かい心を持っていたいです。

物語最後の一文は、

「あーー、生きものって、人間も含めて
みんなみんな、こうだよね。」

と思える一文です。

2年生だった太郎くんは物語のおしまいには4年生になっていますから、
3年生4年生そして5年生くらいの人たちにとくに勧めたいな。
それから、大人。

出会った人みんなが声をかけいたわって 『こんぴら狗』

戌年なので、年頭に「おかげ犬」が出てくる歌を
NHK Eテレ 「0655」 でやっていました。
ポチが通ります
主人の代わりにお伊勢参りに行く「おかげ犬」は
浮世絵にも描きこまれています。

いったいどうやって??
と思うとき、
「おかげ犬だ」と知って、道行く人が導いてやったり
えさをやったりしていただろうことを想像します。

江戸時代の人たち、いい人たちです・・・

「こんぴら狗」っていうのもいたんですねえ~
江戸からだと、金毘羅さまは伊勢よりずっと遠いじゃないですか!

 

四国の金毘羅さままで歩いて行くのは
江戸の線香問屋、郁香堂の飼い犬ムツキです。
生まれたばかりで死にそうになっていた子犬のムツキを
助けてくれたのが郁香堂の娘・弥生。

その弥生が病気で伏せるようになったのを
なんとか治るように願をかけるため
知り合いのご隠居といっしょに金毘羅さまに参ることになるのです。

みちみちどこでも、こんぴら狗と知ると歓迎してくれて
かわいがり励ましてくれるというふうでした。

けれども、早くも第5章の見出しは
「別れ」とある。
いったいだれがだれと別れるの~?
どんな形で??
このあたりから、もう読むのがやめられなくなりますね。

出会う人で、少なからぬ縁を結ぶ人びとは
それぞれが楽しいことばかりじゃない過去を持っていて。

船頭の少年すら、どうすることもできない理由で
生まれた土地を追われた。
3人連れの女の1人はまだ若い娘で、
芸者に売られたがそれを恨むこともできない身の上。
門付けの若い瞽女は
「ほんまにぬくいな。あたしは犬が好きや。」
と見えない目で空を見上げて
ムツキをなでては声に出さずに笑っている。

茶店でだれかが「こんぴら狗や。」と言うと
みんなが振り返ってそばへやってきて
首にかけた木の札をさわったり頭をなでたりする。
そういう、場の空気があたたかく伝わってくるのが心地いい。

長旅を耐えている犬のけなげさに心をうたれるのは
登場人物も読者も同じ気持ちのようだ。

金毘羅さまに着いていよいよお参りするときに
一緒だった娘の言葉に胸を打たれる。
自分も決して幸多い日々ではないにもかかわらず
犬のため、病気だという見知らぬその飼い主のために
涙を流して祈っている姿と言葉に。

ムツキがお参りを果たしたあと、どんな帰途をたどるのか
見届けるまでは読むのをやめられないでしょう。

この物語を小学校高学年の課題図書にしたのは、
見知らぬ人どうしが無言のうちに
善意や信頼でつながりあい助け合うことは
可能なんだよ~~!
っていう意味なんじゃないかと思います。

犬好きの人、歴史好きの人には
とくにおすすめだよ~!
って勧めてみよう。

語って聞かせると より想像がふくらむものがたり 『きつねものがたり』

ヨセフ・ラダが、子どもたちに語って聞かせたことから生まれたお話だけあって、
これはきっと、
ひとつひとつの話を耳から聞かせたら、よりおもしろく、
子どもたちの心の中で
大きくふくらんでいくタイプのものがたりだと思います。

絵から始まった彼の経歴からしても、
生まれ育ったフルシッツェ村で触れ合った動物たちが
たくさん活躍するものがたりがたくさんあるのは自然なことでしょう。
その筆頭がこの『きつねものがたり』というわけです。

きつねものがたりの舞台となる家は
ある「森ばん」の家「ぶなの木ごや」です。
「森番」っていうのも独特な存在ですね。
日本には、いたんでしょうか、似た存在が?
山の中のことをよく知っているということでは炭焼きの人
とかはいましたが・・

森ばんのボビヌシカさんが、
二人の子どもたちのおみやげとして獲ってきたのが
一匹の子ぎつね。

女の子のルージェンカは本が大すきで、
いつもきつねに本を読んでやっていました。
きつねは、じっと聞いているうちに、
ひとつひとつのことばをききわけるようになり、
しまいには、もう、のこらずわかるようになったのでした。
そうして、じぶんもはやく、お話のなかのきつねのように
かしこくなるために、いっしょうけんめい勉強しようと
決心します!

けど、いっしょに飼われている二匹の犬たちにいじめられ、
もう人間と住むのはやめよう、と決めて、
一人前のきつねになるため、森へ逃げ出すのです。

ここから、作者と読者は、このきつねに敬意をはらって
彼のことを「きつねくん」と呼ぶことにします。

きつねくんは、いくつもの楽しくも冒険に満ちた体験を経て
ものがたりのおしまいのほうでは
ある仕事につくことに成功します。
それも領主さまに認められた名誉ある仕事に。

ことばだって、ルージェンカにおそわって以来、
活用に活用を重ねたせいで、
「きつねなまり」なんて、ぜんぜんない人間語をしゃべります!
そうして礼儀正しく賢いきつねになります。
立派な服を着て、羽根つき帽子だってかぶっています。
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たくさんのかわいい挿絵があるから、
小学校初級から読んでもいいけど、
字も小さめだし、一人でいっぺんに読み通すのはけっこうむずかしいかも。
一つずつ切って読むか、耳から聞くか
のほうが、内容に見合った年齢には向いているか?
という感じです。

チェコ人ならだれもが知っている『兵士シュベイクの冒険』の
挿絵が、このヨセフ・ラダの手によるものなのでした。
つまり、チェコのほとんどの人が、
彼の絵に小さいころから親しみ見慣れて
育っているということなのです。

小さな村の貧しい小屋で生まれて、
たった一つの部屋で
生活し、料理をし、眠り、靴を作り、靴を直していた、
という暮らしだったということです。
(イワン・クロウスキーによるあとがきより)
貧しい靴屋、って、ヨーロッパの昔話に多く登場しますね・・・
きっと、たくさんの貧しい靴屋さんがあちこちにいたんでしょう。

おとなも想像をふくらませながら語って聞かせる
素朴なものがたりであり、
「きつねなまり」に見られるように
内田莉莎子さんの訳が、とてもやさしいことばの響きをもっていて
心地よいです。

困ったときにかしこければふだんは愚かなほうがいい 『ゴハおじさんのゆかいなおはなし エジプトの民話』

二人組の強盗に会って
「金をだせ。さもないといのちはないぞ」
とナイフを突きつけられた。
そのとき、お金をぜんぜん持っていなかったけど
そんなことを言ったら強盗たちは腹を立てて
ナイフをのどに突き立ててくるかもしれません。
それで何と言うか?
二人を仲間割れさせるために・・

エジプト民話を集めた『ゴハおじさんのゆかいなお話』。
中世からずっと、中東やその近くのイスラム教国の
茶店や浴場、市場などで、
いくつもの国のことばで語り継がれてきた物語です。

ゴハおじさんは空想の人物だと言う人もいれば、
実在だという説もあります。
名前もエジプトでは「ゴハ」、
アラブのいくつかの国では「ジューハ」
トルコでは「ホジャ・ナスレディン」
イランでは「ムラ・ナスルディン」
と呼ばれています。(あとがきより)

一番人気のあるお話は、
日本でもよく知られている
ゴハおじさんと息子がロバをひいて歩いていると
通りすがりの人たちが勝手な意見を言い、
それを気にして言いなりになっているうちに
二人でロバをかついで歩くはめになる、
というあのお話です。

世の中、すべての人に気に入られようとするなんてのは
そもそもむりだ!
ほかの人がどう思うか、気にしすぎるのはやめよう!
っていう。

日常は楽しいほうがいい。
そのためには賢すぎるのはかえってよくない。
賢いことを人にふりかざすのは不幸のもと。

布製の原画を再現した挿絵がほのぼのとした
空気を作り出しています。

「びっくり」や「シビアな決断」だらけの毎日 『がんばれヘンリーくん』

町ですごくやせてあばら骨がすけて見えるけどかわいい犬に会った。
どうする?

ずうっと前から、犬がほしい犬がほしいと思っていたんだから
その犬を飼うことにしたい!
でも今はバスに乗らないと家に帰れない町にいる。
どうする?

バスに犬を乗せるには、箱に入れればいいらしい。
どうする?

グッピーをひとつがい買って世話していたら
いつの間にかどんどん増えて、
家中のビン全部がグッピー用になって
えさやりで昼までかかるほどになった。
どうする?

友だちのサッカーボールをなくしたから
代わりのボールを買って返さなくちゃ。
ボールの代金13ドル95セント稼がなくちゃ、と思っているところへ
隣りのおじさんが釣りのエサになるミミズを
1匹1セントで買ってくれると言う。
1395匹のミミズをとればボールが買える!
どうする?

思い出せば子どものころは
こんなふうに毎日、あるいは一日のうち何度も
こんな選択を迫られていた気がする。
それは子ども心に、どれもこれもがシビアーな選択。

最高にかわいがっている犬アバラーさえも、
ドッグショーに出て新聞に写真が載ったことから
ある日、どうやら元の飼い主らしい年上の少年が
取り戻しにやって来た。

がりがりにやせて、きたなかったアバラーを
〈「アバラー」とは、あばら骨がすけて見えるからつけた名だ。
松岡享子さんの名訳ですね。原書では何という言葉なのかな?〉
1年間、首輪を買って、
鑑札をつけてやって、
お皿も買ってやり、
毎週馬肉を1キロ買ってやり、
ドッグショーをやった会社のワンワンドッグフードも買ってるし、
洗ったりブラシをかけたり、
なによりいつもいっしょにいてかわいがってきた!

アバラーは元の飼い主のところへ返さなくちゃならないのか?

今生きていれば102歳になろうかという
アメリカの元児童図書館員の作家ベバリイ・クリアリーによって書かれた
いかにも、きょうもあしたも子どもの世界で起こりそうな
おもしろい出来事をそのまま描いたおはなしです。

おとなも自然と、「どうする?」の選択に心を躍らせながら
どんどん読み進んでいきます。

表紙のはればれしたヘンリーくんは
アバラー(じゅうぶん大きな体)を
ヘアトニックのお徳用大型ビンの空き箱に入れて
意気揚々とバスに乗ろうとしているところ。
そうは問屋がおろさない、ってことになるのも知らず・・・

登場するおとなたちも子どもたちも、
究極のところで、ヘンリーくんを温かく応援してくれます。
人はいっしょうけんめいに生きていると
そのことが(宗教に関係なく)神様にもまわりの人たちにも
しみとおって伝わっていくんだな。