8月6日の夕方、くすのきの下で 『かあさんのうた』

8月6日の夕方、作者はもんぺをはいた女学生として
広島近くの村にいました。
そして、町から狂人のように泣き叫びながら逃げてきた
一人の母さんを見ました。
燃える町の中で、ぼうやとはぐれてしまったのです。

作者の大野允子さんが、
今も道のほとりに立っているの見るたび、
「この木は、なんもかんも、知ってるんだな」と
ため息を吐くという、樹齢何百年もの巨大なくすのき。
その下で、あの日起こったであろう
数多くのできごとの中のひとつのおはなしです。

大野さんの作品の中で
いちばん短いのに、いちばん多くの人に読まれてきた気がするという
『かあさんのうた』

「うた」とは、
くすのきによりかかった女学生が
まいごのぼうやをだいてうたった子守唄でした。

くすのきは、
「ぼうや、よかったな。
かあさんに、だかれて・・・いいな。」
と言いながら、からだをふるわせていました。
「かわいそうな、ちいさな 親子・・・。」

朝が来て、くすのきは、
自分によりかかっているちいさな親子が
まるで生きているように
金色の日の光にてらされているのを見ました。

くすのきは、目をつむれば
あのうたが聞こえてくるような気がして
今もくろぐろとした大きな影を夜空に投げて
そこに立っています。

生きてるかぎり学ぶ、人それぞれの学び方で 『こんにちはアグネス先生』

舞台はアラスカの小さな村。
学校は一つだけで先生は一人きり。

そこに来たアグネス先生によって
子どもたちと村の人たちが
「学ぶって楽しい」
と感じるようになるまでが描かれます。

アグネス先生は、昔話をつぎつぎに読んでくれる。
大昔の人たちが、こんなことを思いつくなんてすごいなあ、と子どもたちは思う。
先生に本を読んでもらうと、物語の中にいるような気持ちになって
読むのをやめると夢からさめたようにショックだ、と感じる。

耳が聞こえないからと当然のように学校に行かないままだった
ボッコが「学校に来なさい」と言ってもらった。
そうしてだんだんと
村の人が手話を勉強するようになった。
ほかの勉強がぜんぜん苦手な子が、
なぜか手話を覚えるのがとても早いっていうこともあった。

学校は子どものためだけにあるのではない。
人は生涯、勉強を続けなければならない、とアグネス先生は言う。

サケがたくさんとれたら、3桁の足し算ができると合計何匹とれたのかわかる。
学校でアグネス先生から習ったことが、生活のあちこちで関係ある。
学校なんか、先生なんか、と言っていた村の大人たちも
だんだんと変わってきた。

それまでは目もくれなかったまわりの世界や
遠い世界のことまでも見えてくる気がする。

アグネス先生は違う学校に移って行ったけど、
たぶん夢を持ち続けてそれに向かっていけば、
いつかは夢がほんとうになるって思うところまで
子どもたちは変わった。

本によって、学ぶ楽しさによって、
人は心の中に希望をともして生きて行けると再認識し、
口の両端があがる読後感です。

鎌倉で打ち首になったある盗人の記録から 『馬ぬすびと』

源頼朝が鎌倉に幕府をひらいてから7年後にあたるある夏の日、
九郎次という馬ぬすびとが由比ガ浜で打ち首になった
という記録が、
寿福寺の文庫に残っているという。

その記録はごく短いものであろう。
あるいは、打ち首になったことだけが書かれたものかもしれない。

けれども、九郎次という男が存在したことは
確かだ。
九郎次が、日本のどこかで生まれて育ち、
馬を盗むだけの動機を持って実行に移したことも
確かだ。

この『馬ぬすびと』は、
きっと九郎次という男が
こんな境遇だったにちがいない
と読む者を納得させるストーリーだ。

馬どころで名高い陸奥国の水呑み百姓。
9人きょうだいの末っ子で、上の8人はことごとく死んだ。
死にそこなった九郎次がどんなふうに育ったかは
まあ、考えるまでもないことだ。

そんな暮らしをして、
当然ふるさとが恋しいなどと思ったこともないが、
南部富士といわれる岩手山のすがた、
そして、野馬のすがただけは
思い出すと胸の血がわいてくるほど恋しい。

九郎次は、箱根丸という馬ぬすびとの仲間になる。
箱根丸とて盗人になるような男ではない。
辛い苦しい目にあわされつづけたあげくにそうなったのだ。

日本中、おなじような者だらけ。
その上におっかぶさっているのが、天下をとっているやつとその仲間だ、
と九郎次は思う。

幼いころから夢に見るほどすきな馬。
夢のほかにはよろこびのない世の中。

九郎次は、夢のために命を捨てても惜しくはないと思うようになる。
自分がふるさとでこのうえもなく愛した馬が
いくさで人殺しに駆り立てられている。

「馬を盗むのは、馬をときはなしてやるためだ。
夢をまことにするところまで
追って追っておいまくるのだ。」

「馬ぬすびとがぬすびとか、
頼朝大将のほうがぬすびとか、
いつかわかるだろう。」

その論理にいつの間にか読者は共感しているだろう。
歴史の中の無名の人たちを
その息づかいや表情や声とともによみがえらせてくれる物語だ。

作者 平塚武二は「赤い鳥」同人。
絵は太田大八で、
子どもの九郎次や、馬との日常や、いくさの場面を
その空気とともにわたしたちの目の前に見せてくれています。

小さな命、クワガタを生かしている自分 『クワガタクワジ物語』

2年生の夏至の日に
家の近くの八幡さまの森にあるクヌギの木でつかまえた
3びきのコクワガタ。
太郎くんは、それまでがんばってもがんばっても
つかまえられなかったクワガタを一度に3匹もつかまえて、
飼うことになりました。

名前だってつけました。
お兄さんらしく落ち着いているように見えるのがクワイチ、
ちょっと小さめなのがクワゾウ、
いちばんあばれんぼうなのがクワジ。
きっと3兄弟に思えてならないのでした。

つかまえたときのことや
3匹が育ったであろう幼虫時代やさなぎ時代のことも
それから何度となくお母さんといっしょにお話にして
話したり話してもらったりしました。

クワガタの家として用意されたのは大きな樽。
「第一クワガタマンション」と名付けられて
3匹で飼っているうちに、ほかのクワガタも加わったりして
にぎわいます。
学校にもクワガタを連れて行ったんですよ。
3兄弟のクワガタ、は家の中を歩き回ったりしながら
樽の家で元気に生きていました。

めんどうをみて冬越しもしました。
自分以外にたすけるもののいない小さな生きものを
たいせつに育てる様子がとても尊いです。

家出したクワゾウが帰ってきたときのことは、
なにがなんでも、たくさんの人に読んでほしい場面です。
124ページから126ページにかけてです。
涙なくしては読めません・・・

本能に支配された生きものたちの行動を
「どうしてか」
と考えるのは人間の勝手のようではありますが
やっぱりそれも含めて
自然界の流れなんじゃないかと思えます。
また、そういうふうに考えられる温かい心を持っていたいです。

物語最後の一文は、

「あーー、生きものって、人間も含めて
みんなみんな、こうだよね。」

と思える一文です。

2年生だった太郎くんは物語のおしまいには4年生になっていますから、
3年生4年生そして5年生くらいの人たちにとくに勧めたいな。
それから、大人。

出会った人みんなが声をかけいたわって 『こんぴら狗』

戌年なので、年頭に「おかげ犬」が出てくる歌を
NHK Eテレ 「0655」 でやっていました。
ポチが通ります
主人の代わりにお伊勢参りに行く「おかげ犬」は
浮世絵にも描きこまれています。

いったいどうやって??
と思うとき、
「おかげ犬だ」と知って、道行く人が導いてやったり
えさをやったりしていただろうことを想像します。

江戸時代の人たち、いい人たちです・・・

「こんぴら狗」っていうのもいたんですねえ~
江戸からだと、金毘羅さまは伊勢よりずっと遠いじゃないですか!

 

四国の金毘羅さままで歩いて行くのは
江戸の線香問屋、郁香堂の飼い犬ムツキです。
生まれたばかりで死にそうになっていた子犬のムツキを
助けてくれたのが郁香堂の娘・弥生。

その弥生が病気で伏せるようになったのを
なんとか治るように願をかけるため
知り合いのご隠居といっしょに金毘羅さまに参ることになるのです。

みちみちどこでも、こんぴら狗と知ると歓迎してくれて
かわいがり励ましてくれるというふうでした。

けれども、早くも第5章の見出しは
「別れ」とある。
いったいだれがだれと別れるの~?
どんな形で??
このあたりから、もう読むのがやめられなくなりますね。

出会う人で、少なからぬ縁を結ぶ人びとは
それぞれが楽しいことばかりじゃない過去を持っていて。

船頭の少年すら、どうすることもできない理由で
生まれた土地を追われた。
3人連れの女の1人はまだ若い娘で、
芸者に売られたがそれを恨むこともできない身の上。
門付けの若い瞽女は
「ほんまにぬくいな。あたしは犬が好きや。」
と見えない目で空を見上げて
ムツキをなでては声に出さずに笑っている。

茶店でだれかが「こんぴら狗や。」と言うと
みんなが振り返ってそばへやってきて
首にかけた木の札をさわったり頭をなでたりする。
そういう、場の空気があたたかく伝わってくるのが心地いい。

長旅を耐えている犬のけなげさに心をうたれるのは
登場人物も読者も同じ気持ちのようだ。

金毘羅さまに着いていよいよお参りするときに
一緒だった娘の言葉に胸を打たれる。
自分も決して幸多い日々ではないにもかかわらず
犬のため、病気だという見知らぬその飼い主のために
涙を流して祈っている姿と言葉に。

ムツキがお参りを果たしたあと、どんな帰途をたどるのか
見届けるまでは読むのをやめられないでしょう。

この物語を小学校高学年の課題図書にしたのは、
見知らぬ人どうしが無言のうちに
善意や信頼でつながりあい助け合うことは
可能なんだよ~~!
っていう意味なんじゃないかと思います。

犬好きの人、歴史好きの人には
とくにおすすめだよ~!
って勧めてみよう。

「ぼくもがんばるよ」と心の中で話しかけるようになるまで 『夏の庭』

「夏の庭」とは、
ある一人ぐらしのおじいさんの家の庭。
コスモスがいっぱい咲いた庭。

コスモスのたねが、ぱーっとたくさんまかれたのには
たくさんの事情が折り重なっていたし、
コスモスが咲くかたわらで起こったことも
人の一生のうちで何回もあることじゃない。

6年生男子3人。
古い小さな木造の家に住むおじいさんと知り合う。
その動機は、なんとなくやましい・・・
けど、おじいさんとつきあって少しずつ会話をするうちに
6年生なりにわかっていく。
人生では
「Aさんの家にはりんごがひとつありました。
Bさんの家にはりんごがふたつありました。
両方合わせて3つです、ってわけにはいかない。」
ってことが。

死ぬって、もうその体でぼくと話したり、
いっしょにものを食べたりすることは絶対ないってことだと感じる。

老人には(老人とまでいかなくても)、たくさんの歴史があるのだ。
そうしてやがて、歴史とともにあっちの世へと行くのだ。

残されたぼくたちは、
おじいさんが一人でぶどうを洗っている後ろ姿を想像する。
思い出すのは、そういう日常のなにげない姿だ。
そこにこそ、その人のぬくもりがある。

彼らは、
「ぼくもがんばるよ。」
と心の中でおじいさんに話しかける。

いやなことがあっても希望がないように見えても人は 『トムは真夜中の庭で』


他人から「かわいそう」「気の毒」と
思われる境遇であっても、
ぜんせんそうとはかぎらない。

これはそんなことを思うおはなしです。

来たくもない家に預けられていやいやながら過ごす少年トムでしたが、
いつしかその家から離れたくなくなります。

それは、ある夜、アパートのホールいちばん奥にあるドアを開けて
裏庭へ出るようになってから。
昼間はそんな裏庭があるはずはないのに・・・

きっかけになったのは、いつも数を打ち間違える古い大時計。
けど、ほんとうに打ち間違えていたのだろうか?
あるときは、13回打った。
それは、間違えたのではなく、
あまりの時間、13番目の時間がありますよ、
と言っていたんじゃないか、とトムは思いつきました。

あまりの時間って、どこに存在しているんだろう?

裏庭で出会った女の子ハティは、どうやら
両親を失った「かわいそうな」子。

挿入される古くから英語圏でみんなに知られているアイルランド民謡
「うつくしきマリイ・マローン」。
魚の行商をしていた美しい娘マリイ・マローンが熱病で死んでしまう内容です。

読み終えると、
人の心の中に生き続ける思い出というものの陰が濃くなります。
そうして、この世を形作っているのは、呼吸して生きている者だけではないんだなー
と確信し、そう思うことがほのぼのとうれしく感じられてきます。

イギリス児童文学作家・批評家ジョン・ロウ・タウンゼンドが
『子どもの本の歴史–英語圏の児童文学』で
「第二次大戦後のイギリス児童文学のなかから
傑作だと思われるものをただ一作だけ挙げろと言われるなら」
という仮定で挙げたのは
この作品だと「訳者のことば」で紹介されています。

ファンタジーが苦手なわたくしですが、
ファンタジーっぽく感じずに
先へ先へ読み進まずにいられない
謎に満ちていてそれでいて荒唐無稽でなく
人間の一生が描かれているおはなしです。

いま、タンポポ界はどれが主流? なぜ? 『わたしのタンポポ研究』

セイヨウタンポポが来て100年

日本にセイヨウタンポポが来たのは、
サラダ用野菜として北海道に持ち込まれたのが始まりのようです。
1904年の植物学専門誌に牧野富太郎博士によって報告されているそうです。
日本中に広がっていくだろうという博士の予想がずばり的中して
セイヨウタンポポが日本タンポポを駆逐していくかに思われていました。
実際そのようなニュースがまことしやかに流された時期もありました。

けれども、自然界はそんなに単純ではなかったようです。
静岡県で奇妙なタンポポに気づいた人がいたのです。
そのタンポポは姿かたちはセイヨウタンポポそっくりなのに、
様子が異なっていました。
遺伝的な実験をしながら詳しく調べていた研究者によって、
その奇妙なタンポポが雑種タンポポであることがつきとめられました。
1988年のことです。

「緑の国勢調査」で明らかになったこと

2001年、全国で見た目がセイヨウタンポポらしいものを集めて調べた結果、
そのうち85パーセントほどが雑種タンポポ、
残りの15パーセントがセイヨウタンポポでした。

たねの運ばれ方いろいろ

小学校2年生の教科書にすでに出てくるように、
タンポポのたねが遠くへ運ばれる様子は日本人の多くが知っています。
そういう知恵を使って広がり生き抜いてきた日本タンポポが減って
雑種タンポポが増えてきた秘密は、
どうやら暑さに関係があったようです。
その事情が本書に書かれています。
グラフもあってよくわかります。

みんなで暮らす日本タンポポと 一個体で暮らせる雑種タンポポ

そして、なんとセイヨウタンポポや雑種タンポポは、
たった一個体で種子をつくれるそうです。
だから、街中でコンクリートのすき間に一株だけ生えても生きていけるんです。
都市生活にマッチした、
群生できなくても暑くても平気な種類が数を増やしてきたというわけです。

それでもまだまだ残る謎

そうだったのか、なるほど、と解明されたことも多いとはいえ、
まだまだわからない部分が残っているのが
タンポポの不思議で奥深いところ。
タンポポの寿命って何年ぐらい?
ある場所に根づいたタンポポは何年ぐらいそこで生きているのか?
また、冬に咲いているタンポポを見かけるが
どのようなメカニズムでそうなるのか?
など、正確にわかっていないそうです。

英語で「ダンデライオン」と言うタンポポ。
葉がライオンの歯のようだからというのが一般的な説のようです。

身近で特徴満載なタンポポは
人間のそばにあってその生活環境を映しながら
身を守り変化しながら生きている植物なんだという思いを深くする本です。

こういう説明文的な本は、
手に取るまでが敷居が高いのですが、
読んでみると「読んでよかった」
と思えることがほとんどです。
この本も、一般の人にわかりやすくイラストや図表入りで書かれているので
スムーズに楽しく読むことができました。
イラスト、ほのぼのタッチでかわいい!
小学校高学年から読めます。

雑学なんてくだらない? それとも? 『雑学の威力』

「知るは人生を楽しくします」
と言われても、
「そうかな~」「べつに~」
と思ってきました、2,3年前までは。
だんだん考えが変わってきたのは、
学校図書館で働き始めて、ある元校長先生のお話を聞いてから。

「『どうでもいいこと』を端緒に、話がふくらんだりはずんだりするよ。」

「どうでもいいこと」は、それ自体はどうでもよくても
人と人をつなぐきっかけを作り出す、って本当かも。

そんな伏線があって手にとった本。

そうして読んでいる間のあるとき、
NHKカルチャーラジオ文学の世界
「カリスマ講師に学ぶ近代文学の名作」

っていう番組を聞いたんですよ~

そうしたら講師の出口汪さんがプロローグの回に、
文学作品がその人にしみこんで
だれかと会話したときに
人間性とともに外に現れてきたり
ほかの話題のときに関連づけて出てきたりする
そういうのが教養というんだ、
っていうようなことを話していました。

読んだらその内容が
どうやって自分の血となり肉となり
心の中で醸成されていくかがだいじで。
醸成されたことによって人生が自分にとって
楽しくなる、ってこと。
生活で負けそうになっても負けないで生きていけるってこと。
おおげさなようだけど、そうやって生きていくんだと思う。

インターネットと紙の本についてふれたところがあって
なるほどー、と思いました。
知識を取り入れるとき、今では
インターネットで検索するのがいちばん手っ取り早い。
それで済む場合も多い。

ただ、情報の見せ方が均質的なために、
どこが重要でどこが重要でないかを判断しにくいというのです。
書籍のように背表紙や本の作りから
専門的だとか一般向けだとか判断できず、
書体が同じで難易の別が取り払われてしまう。
インターネットで情報をとる利点と欠点はそれぞれ言われているけど
この欠点は見過ごされやすいです。
時間を大量に使って得るものが少ない、ってことに陥りやすい。

ところで、
「初対面なのに話しやすい人」
という章があって、
最近そういうことを実感したわたしは、
『雑学の威力』にそういう章があることが
妙に納得がいったのでした・・・
(「本が好き」の読書会では、初対面なのに話しやすい方々ばかりでした!!
ありがとうございました。)

人とコミュニケーションをとる際には、
相手の話に積極的に耳を傾け、ひっかかる点があれば
どんどん質問してみると、
思いがけず面白い会話が開ける、というわけです。
一期一会、新しい縁が開ける、
そういう機会を作れると有意義な時間を過ごせますものね。
そのほうが生活が楽しい。

気に入ったことば
「耳の穴を『ON』にする」・・・いろんな場面で使えそうです。

意識していなかったこと
「日本は図鑑先進国」・・・日本ほど図鑑が美しくて充実している国はないそうです。
やく家の書架にはかなりの種類の図鑑群が所蔵されているようです。

「自分は変わり者だ、あまりしゃべらずおとなしくしていよう。」
と、思うときも多いのですが、
この本を読むと、
相手をちょっと選べば、
しゃべってもだいじょうぶ、と思えました。(笑)

雑学好きは、人にも物にも偏見少なく
コミュニケーション上手なんだ!

ぜーったい直らなかった「さびし好き」 『素顔の久保田万太郎』

素顔の久保田万太郎

「雨垂れ文学」と揶揄された「・・・」を
使いたくなる気持ちがわかるような気がして。
また、牡丹の花の対極にあるという意味で
秋の草みたいな人だと思われていたのも共感できる気がして。
なんとなしに久保田万太郎作品を友として
ぬくぬくと過ごす、冬ごもりが好きな性分です、わたし。

こんど、俵元昭『素顔の久保田万太郎』を初めて読みました。
知っていたこと知らなかったこと、ありました。
明治39年、慶應義塾の普通部に通っていた少年のころからの友人
林彦三郎氏を中心とする、親しかった4氏が座談したものを文章にまとめたもの
とのこと。
ひどい目にあったことも数限りない友人であり
どんな人だったのかを人間性全部ひっくるめて知っている人の物言いです。

昭和49年、久保田万太郎歿後10年のとき、
人間久保田の一面の肖像を明らかにすべく口述したうち
「三田評論」に載らなかった部分が6,7倍もあった。
そこにも久保田の表裏を物語った内容が多く
埋もれさせるのは忍びないことから
久保田万太郎終生の友人として
林氏が俵氏にまとめてもらうことを諒解したものです。

共通に知る友人知己にも参照してもらい信憑性のある事実となっています。

落第したのを苦に慶應に転校したことが機縁となって
文学を志すことになるところ、
人生わかりません、っていう格好の例です。

久保田が島崎藤村を意識していたらしいことは
知らなかったような。
林さんも、それはよくわかりません、と言っています。
「わからない」というのは
なんで藤村なんか意識したのか理解できないという意味か
なぜなのか理由はわからないという意味なのか?
両方みたいです。
藤村を嫌う人はけっこう多い気がします。
『新生』にあるような罪を犯しながら
また、家族を犠牲にしながら
しかつめらしい顔をしているからか。
文体的には、まじめくさった感じというか、
そんなところに万太郎は惹かれたのかな、っていう気はします。
猥談みたいなことが大嫌いだった万太郎の
そんな面からして。

志ん生と文楽の逸話もおもしろいです。
志ん生が万太郎のことを「あんなわからず屋はいない」
と言うのでわけを聞くと、
志ん生がした廓噺に新内が出てきて
それを聴いた久保田が
吉原には新内がない、と言ったのです。
すると志ん生は、自分はこの耳で吉原の新内を聴いている。
ねえとはなんだ、べらぼうめえ、というわけ。

吉原では大正のはじめまではたしかに新内をやっていたと
林さんも言っている。
ところが吉丸という新内語りがあまりにうまかったせいかなにかわからないが
心中がやたらにふえるので
大門のなかへ新内流しがはいるのを禁止しちゃったわけで。
久保田だって、そんなことは百も承知にちがいないのに
何ごとにもことば短かで、委しい説明をしない、と。
宇野浩二が「ことばのケチンボ」と評していたと。
いっぽうの志ん生も、
早とちりだし、承知できないとなるといっこうに考え直さない。
それで気に食わないやつだ、と互いに思ったっきりになっていたと。

で、文楽ですが、「愛宕山」という噺で
江戸から来た幇間が旦那の尻押しをして京の愛宕山への山道を登るとこ。
そこをやったら、
君のは、足は疲れているけど手はくたびれていないね、
と万太郎がひとこと言った。
文楽が恐れ入って言葉にしたがってそこを工夫して直したので
すっかり万太郎に気に入られた、というのです。
3人ともに性格がよく現れたエピソードだと紹介されていて
面白いです。

毀誉褒貶あったけど、
国立劇場設立に向けての努力奔走は、
誰の目から見ても認めてよいと言われているようです。
それも、実業家として地位ある友人の林さんが間に立たなくてはならないように持っていってしまう、
というじょうずなやり方をしていたというから
当事者にしたら微苦笑、
やがて、しょうがないな、と納得する段取りのようで。

近くにいた人だから知っていること、
当時は知人同士あたりまえに言われていたからこそ、
時がたつとわからなくなる事情も
書き留められていて貴重です。
三隅一子さんのあだ名「御守殿」のほんとうのわけ。
権高な美人、というふうに解される向きもあるがほんとうは
河竹黙阿弥作『小猿七之助』に出る御守殿滝川からきたもので
身持ちに問題があったことを言うものだったと。
まあ当人を知らない人ばかりになったら
どうでもいいことになるんですけどね。

永井荷風が亡くなったあと、後始末に奔走して
『断腸亭日乗』を慶應義塾へ寄贈してもらう段取りをつけたのに
すっぽかされた、ってことなんかもあったそうです。

でも、あの戸板康二さんの才能を見抜いて
明治製菓の宣伝雑誌からスカウトしたのも万太郎だそうで。

演出で絶えず、雪降らしたり雨降らしたり
さみしいのが好きだった万太郎。

仲がよかった芥川龍之介に「嘆かひの詩人」と表現され、
水上瀧太郎に「情緒的写実」と指摘された「・・・・」という無言の嘆声を書かずにいられなかった万太郎の文学。
徹底的に「さびし好き」が直らなかったんです。
それが嫌いな人は万太郎作品が嫌いで、
それが好きな人は万太郎文学が好きなわけで・・・・・・・・・

久保田万太郎が好きでもきらいでも、
まわりにいたいろんな俳優や芸人たちがたくさん
入れ替わり立ち替わりでてきて
おもしろく読める本です。