本の持つ力とは?ー本を守ろうとする猫の話ー

読み進むにつれて、主人公・林太郎の祖父の古本屋が続いてほしい、という願いが強まってくる。

本を救うため林太郎を起用したのが
古本屋の奥の壁から現れた猫なのは、古本屋のイメージと猫の人気度からして無理もない!

本を害していた3種類の人々は、もともとは本を愛していた人々だった。

愛したがゆえに、本があり続けるためにどうしたらいいか考えるうち、それぞれの邪道に陥ったのだ。

聞いてみるとそれぞれもっともな理由だ。

読み応えのある本は、長くて読むのが苦しくて、内容だけ知れるならそれでいいと思いがちだ。心を揺さぶられるのは、億劫だ。

けど、感動を味わうのは当然ある程度の長さの本でなければ。

出版社が売れる本だけ売っていたらどうなるだろう?

手軽なもの、安価なもの、刺激的なもの、そういう読み手たちの求めるものに本は姿を変えていく。

一方、大切にされた本には心が宿り、そして心を持った本は、その持ち主に危機が訪れたとき必ず駆けつけて力になる。

林太郎は、本の力って何なのか、ずっと考えてきたという。
そして、思い当たる。

古本屋を営む祖父を突然亡くした高校生の林太郎と

学級委員長の柚木さん、トラネコ、迷宮の人々、それぞれの行き方で本と関わる。やっぱり本は人を不思議な世界へ導く架け橋なんだな。

ノートが行動を起こすきっかけになる ーノート術大全ー

書くことで気持ちが整理されて、
日常のモヤモヤがすっきりする
ってことは、前にも感じたことがある。

なのに
どんなふうに書く?
いつ書く?
とか迷ったりしてやめてしまった。

ダメなわたし、、、

この本に書いてあるお悩みの
ほとんどが私に当てはまっている。

*やりたいことはあるのになかなか行動できない。
*思いついたこと、やらなければならないことを忘れる。
*心がざわざわして落ち着かないことがある

など、、

50冊のノート術やメモ術の本を実践してまとめた本というだけあって
それらのうち気になる本にも当たってみることができて、
とても影響力あった。

私もなんとかしてこれを実践し
今のさえない自分を変えて
少しでも、ましな人生を歩みたい!
と、思うー!

さっそくノートに書くことで
モヤモヤの原因とその対策を整理した。
対策は、抽象的だったり大きすぎたりすると
解決につながらないから
小さいことに分けて、実行できるように
考えること、っていうのも伝授されました。

ひとりの人間の中にはいろんな自分が住んでいるー『オバケはあの子の中にいる!』

4年1組橋本真先。
転校生、鬼灯京十郎。
京十郎には、オバケが見えるというひみつがあるのを
真先は知っている。

真先の幼稚園のときの友だちミナコちゃんと
久しぶりに会ったら、
同じ顔をした子が横にいて、
まったく同じことをまったく同じ声で同時にしゃべっていた。
おかしいなと思っていると1人が
公園のトンネルの中に入ったまま消えてしまった。

オバケが見える転校生、鬼灯京十郎に
その謎をといてもらおうと、
真先は2人のミナコちゃんに会った公園へ向かう。

子どもだって大人だって
オバケから逃がれることはできないのだ。

植物の生き方に中に人間の生き方がある

人が植物のたとえを登場させて言葉を紡いできたのは、
人が植物から多くを感じ取ってきたからなのでしょう。

「言葉」という言い方を普段使っていても
そのことを意識しないでいました。
言葉は言の葉っぱなのです。

「ムーミン」に植物を観察するヘムレンさんがに出てきていたのも
なるほど意味のあることだったんですねー。

種田山頭火の

ふまれてたんぽぽ ひらいてたんぽぽ

とか、

八木重吉の

花はなぜ美しいか
ひとすぢに咲いているからだ

とか、
心に響く言葉が
美しい挿絵とともにどのページにも
散りばめられています。

人の心を種として葉っぱのように言葉が生まれてくる。

警句集はさまざまあれど、植物関連のものは
少ないようです。
この本を読むと、なんで今までこういう本に出会わなかったんだろう?
と思います。

 

図書館では一人一人がとくべつなんじゃ

たきぎを集めるおじいちゃんと暮らす女の子ステレ。
それも、目に見える友だちをだけでなく、
目に見えない友だちも。
誰もが、それぞれのお話を持ってる。
おじいちゃんからそう聞いたステレは、
そうだ! 図書館って、世界中を見る「目」みたいなものだって気づきます!
そうして何度も図書館を訪れているうちに、
図書館が、音にも満ちあふれていることにも気がつきます。
それは、読んでもらいたくて待ちきれない本たちが
ささやいたり、ページをめくったりする
小さな小さな音でした。
今までひとりぼっちだと思っていたステレは、
自分はもうひとりぼっちじゃないんだ! と感じました。
お話したがっている友だちに囲まれていたからです。
ステレだけじゃなく、大人も子どもも、
なんとなく周りからわかってもらえないと感じたことがある多くの人、
一人になりたいと思ったことがある人、
また、さびしいと思ったことなんかないという人にさえ、
自分が置かれた場所を改めて発見してしまう物語です。

AIが幅をきかせる社会では読解力が一層大事

AI にできないことってなんだろう?
それが「ことばの意味を理解すること」。
AI は東大の入試に受からなかった。
新井素子さんは、その著書でAI が幅をきかせる社会では読解力が一層大事だという。
  =  人の気持ちがきちんと分かること。
インプット= 自分に役に立つことを選び出して理解する。
アウトプット= インプットしたことをふまえて、
       自分の意見をしっかりと相手に伝える。
NHK ニュースウェブ トップニュースが1からわかる!シリーズ。信用できるサイトは、しっかり編集の手が入ったサイト。
より深く調べるにはどうしたらいい?
ネットで検索するのは実は非効率。
いろんな記事や情報がヒットするけどあてにならない内容のものがたくさんある。
どれが有益かみわけられない。
情報収集7つのルール
  1. 新聞やニュース雑誌、NHK NEWS WEBなどのサイトを読む習慣をつけよう。
  2. ネットで情報を調べるときは、NHKのようなマスメディアが運営している「編集」されたサイトを選ぼう。
  3. インプットのためには「正しく読む力」が必要。文章のつながりを意識して読むことがポイント。
  4. 知らないことばに出会ったらすぐに辞書を引く。電子辞書よりまずは紙の辞書を。
  5. ちょっと専門的な言葉を調べるときは、百科事典にあたろう。最新のニュースにあたるときは、オンラインデータベースがおすすめ。
  6. 聞く力をみがくうえでは、NHKラジオのディクテーションが効果的。
  7. 中学の教科書に載っている基本的なことをしっかりふまえているかどうか、これが信頼できる情報を見分けるコツ。
ほんとうのコミュニケーションとは、単なる情報のやりとりじゃない。
お互いがそれぞれの気持ちを考えながら適切なことばをかけあっていくのがほんとうのコミュニケーションだ。
知識は人のために使ってこそ意味がある。

言葉が「もと」。自分がどこにいるかを知る〜読書からはじまる

長田さんの読書に関する本には、
なぜか惹かれる。
この本にも。
本は「はじまり」「もと」という意味を持っている。
言葉はいわば、本(もと)である。現実生活の友人はその人が生きているということが前提だが、
本は死んだ人すべての中から自由に自分で友人を見つけることができると
改めてかみしめる。

本好きなら、例えば正月がくるたび、ある本を読むと決め、
生活の中でぶれてしまった自分の心の置きどころを
認識し直すことができる。

ちょっと「え?」っていう内容もある。
けど、個人的には賛成。
ニンマリ。
本を1冊読もうと思ったら、その本をどの椅子で読もうかと考えられるなら、
いい時間をきっと手に入れられるだろう、というのだ。
いい椅子を一つ、自分の日常に置くことができれば、
何かが違ってきます、と。
とりもどしたいのは、日常の中で本を読むのはこういうことだという実感だと。
本を読むのは深呼吸。
本当にそうだ。
本好き仲間を増やすことは、
深呼吸できる人を増やすことだ。

子どもの本の周辺のことではこんな記述がある。

木のまわりをぐるぐる駆け回るうちに、トラがバターになってしまう。
そういう記憶をまざまざともっているのと、
まったくもっていないというのとでは、
世界の見え方はどうしたって違ってくる。
子どもの本というのは、
そこから世界がこんなふうに見えてくるという記憶をのこす本です。
遠眼鏡であり、同時に顕微鏡である本。

世界の見え方

これですよね。
本の大きな魅力って。

ロシア民話 「鶏の卵ほどの穀物」で、
なぜその穀物ができなくなってしまったのか尋ねられ
老人は答える。
「それは、人が自分で働いて暮らすということをやめてしまったからです」
民話なんて何のいまさら、と思うのは間違い。

読書というのは、実は、本を読むということではない!
みずから言葉と付き合うということ。
つまり、自分がどういう場所にいて、どういうところに立っているか知るということ。

本好きを増やすと
世の中がもうちょっと暮らしやすくなる!

一度出会ってれば再会できる 『飛ぶ教室』

『飛ぶ教室』は、いい場面、いい言葉にあふれているんだけど、

少々、時代がついていたり、
言い回しが読み巧者でないと味わえなかったりで、
読んだらいいのに! と思う年代の今の子どもには
「?」
になってしまう部分がけっこう多い。

そこで、忠実な訳だと伝わりにくい内容を、
ストレートに変えて、短くしている
いわばリメイク版のようなものがあるといいわけで。

ポプラ社の最上一平さんによる『飛ぶ教室』を読んだ。
こういうものを
何と呼ぶのか定かではないけど、
いい場面、いい言葉を味わってほしいけど
全体を読み通すのは難しすぎるなーー
と想像される児童生徒に対して
とても有効だと思います。

『飛ぶ教室』には、第一のまえがき、第二のまえがきとあって、
子どもたちは確実に、このまえがきを読み通すことからして
できないだろう。
それを、まえがきの中のエッセンス的な部分1ページ分だけを残し
カットしている。

そして、外国文学を読むときに、
かなりの割合の大人もそうであるように、
登場人物の名前と性格の紹介が
イラストつきでついている。
イラストがあると想像力が損なわれる、
とこだわる向きもあるだろうが、
物語の入口をはいれなければ意味がないわけで。
私もこの紹介に大いに助けられました。

岩波書店、高橋健二の全訳版は、
この物語を読んでほしい子たちには壁となる
いろんな要素が入っていて
残念ながら途中で挫折することを誘っている。

例えば、リメイク版は、
「あいつは秀才だけどガリ勉じゃない。・・・だれのいいなりにもならない。自分が正しいと思ったらつき進む。」
というところは、全訳版では、
「いやけがさすほど勉強家・・・じぶんが正しけりゃ野性のサルのむれにでも対するようなふるまいかただ」

いろんな箇所で格調高く、言葉として奥行きがあって
他の知識が盛り込まれていたり、読んで手応えがある。
だからこそ、読むことに慣れていない子どもには
ハードルが上がっている。

終わりのほうのこんな部分は、
リメイク版では、
「きみたちが今まさに生活しているこの少年時代の思い出は、
人生のたからなんだ」
という感じなのに対して
全訳版では、
「かんじんなことを忘れないために
永久に心にきざみつけておきたい、この尊いひとときに
わたしは諸君にお願いします。
諸君の少年時代を忘れないように・・・略」
といった感じです。

最上一平さんが、あとがきにいみじくも書いている。
もう一度、5人の少年に会いたくなったら、
今度は完訳の本を読んでみることをおすすめいたします。と。

もっとも、実はこの物語の登場人物たちは
日本でいうと中学生くらいなので、
最上さん訳だと易しすぎるのが本来なんだけど、
小学校中学年くらいからターゲットになった易しさです。

登場人物の少年たちは、
一人一人かかえている事情がある。

ケストナーの原作が書かれたのは1933年。
ヒトラーがナチス政権を打ち立てた年。
そういう暗い空気が感じられたり、
ケストナー自身の体験が、
少年たちのみならず、登場する大人たちにも反映したり
していることは間違いない。

マルティンの言葉、
「ぼくはひどく幸福じゃないよ。・・・しかし、ひどく不幸でもないよ。」
は、当時の人々の心をよく表しているんじゃないだろうか。
幸福を自身の中に見出さなくちゃ
やってられないよ。
いつの時代もそれは同じか。

この世の中どうしようもないこともある 『小川未明童話集』

「赤いろうそくと人魚」は有名だから読んだ人は多いかもしれない。

けど、小川未明はほかにもたくさんの童話を書いている。

角川春樹事務所発行のハルキ文庫版『小川未明童話集』の
巻末エッセイで
森絵都さんが書いているように
「淵にはまる」という例えがぴったりくる
未明ワールド。

人の力ではどうしようもないことが
この世の中には起こるんだ
と思い知らされるお話も多い。

切ないお話。
かわいそうなお話。
多い。

筆致が柔らかくやさしいだけに
なおさらに哀しくかんじられるお話の中の空気。

弱い人、貧しい人に
太陽のではなく薄くて清い月の光を当てたようなお話の世界。

子どものとき読んだのと
大人になってから読んだのとでは
違った感じが残るでしょうけれど、
これを読む人が増えると
相手の立場を思いやる人が増えるんじゃないでしょうか。

ハルキ文庫の千海博美さんの装画挿絵すてきです。

絵本ってそもそもなに? 『絵本よもやま話』

福音館書店 こどものともの『かさじぞう』の画家
赤羽末吉さんが
絵本について
自分のたどってきた道や考えを書いた本
『絵本よもやま話』。

西荻窪の古本屋 〈トムズボックス〉さんで書いました。

中国の大連で運送屋の小僧をやっているとき
街の古本屋で見つけた
「コドモノクニ」。
表紙が初山滋の絵だったその本で
心とからだに灯りがともったそうだ。

その辺りが絵本との出会い。

『かさじぞう』を描いたころの経緯が
書いてある。
毎年、小正月の10日間ほど、
雪国をさまよってスケッチ、
雨の日は写真。
そのころ、
茂田井武の『セロひきのゴーシュ』に出会ったそうだ。

感動のあまりその出版社 福音館書店の松居直氏に手紙。
瀬田貞二氏の『かさじぞう』をもらった。

中国大陸で暮らした経験からくる確信が
その絵に表現されていることが告白されていて
非常に感動的かつ納得です。

すなわち、
日本の美しさは、
湿気の美しさ、
陰りの美しさと判断したこと。

あの『かさじぞう』では、
その湿気が表現されて必然的に墨絵になったのだと。

絵本ってそもそもなに?
という話は、
読んでみると
ふだん何気なく絵本というものを
手にとってスーッと読んでいる私には
考えさせられるし、考えたくなるテーマのような気がしてきます。

一部の物語絵本は、
原作を絵本の枚数に合わせてチョンチョンと切り、
その下に挿絵をつけたにすぎないという。

しかし、当時、
これからの若い人はレオ=レオーニのような創作絵本にゆくだろうし、
物語絵本も、
絵本でなければできないおもしろさを持つようになるだろうから
そういうワクはなくなるだろう
という。

つまり、みんな創作絵本のようになるだろうと
そのころ赤羽さんは、若山憲さんという
雑誌「月刊絵本」の人に話したそうだ。

だが、実は若山氏のほうは、
絵本は、より単純な内容で
視覚的に展開する「ヒラメク絵本」こそが
純絵本というべきだと考えていたらしい。
文学に頼らず、絵だけで展開し理解させるのこそ
「純絵本」と言うべきだと。

それに対し、赤羽さんは、
それまで既に長い間、
優れた文学と絵との結合は、
子どもの心にどれだけ暖かい響きを残したことか
というのだ。

結局、絵本という花は
いろいろな形で、いろいろな色で
豊かに咲かせてほしいと
赤羽さんは言っている。

完成された文学を絵本にしないほうがいいといっても
斎藤隆介・滝平二郎の『八郎』や
宮澤賢治・茂田井武の『セロひきのゴーシュ』
の絵本は
あったほうがよいにきまっていると考えると
言っている。
ほんとにそうだと思う。

今では、この本が出たころとは比べものにならないくらい無数の絵本が
世の中に存在する。
絵本を心で味わい多くの感動をくみとっていきたいと思う。

最後に、赤羽さんの名作、
大塚勇三作『スーホの白い馬』の表紙絵について
絵本が与える感受性の醍醐味を感じる逸話がある。

幼稚園の子どもが表紙を見て
「スーホは白い馬がかわいくて、そうっとだいてやっているんだね」
と、言ったことだ。
スーホの指先の表情までシカと読みとっていたのだ。