草刈り、炭焼き、盆踊り復活・・体験するってすばらしい

身をもって体験したことは、
人に伝えるとき、ものすごい説得力を持ちますね。

21歳男子大学生が地域おこし協力隊員となって
山村で暮らし、地域おこしに加わります。
山村で欠かすことのできない草刈りから、
簡単そうに見えて
満足にできるまでには相当に苦労します。
それでも、初対面の人にできるだけたくさん会って
コミュニケーション力をつけて
いろんな人たちに鍛えられ学んでいく姿から
不肖50代のわたくしも、学ぶところが多くありました。

戦後生まれで苦労知らずの自分も、
もっともっと体を使った体験を増やさないと
人生つまんないまま過ぎてしまうかもしれない、
なんて思わずにいられなくなる説得力がある本です。

 

みんな秘密を抱えて生きている

「できることはできる、できないことはできない
って自分で区別すること。」
美容院のナオコ先生が12歳のまゆ子にこう言う。

実践するのがむずかしいけど、
気持ちが楽になるという面もある。

がんばっちゃう人、
自分でなんとかしなくちゃと思いすぎる人には
妙薬になる言葉かもしれない。

そういうナオコ先生自身も、
まゆ子となかよしになった年上の女の子サワちゃんも、
サワちゃんと血のつながってない弟の颯太も、
まゆ子の母の里美さんも、
みんな、今までに人には話しずらい秘密を抱えてる。

すっからかんに秘密のない人なんて
つまんない!
ぐらいに思って、
自分の過去の暗さも今の悩みも
そういう中のひとつに過ぎないんだな、
という気になったりします。

 

日暮れまえの魔法の時間・・静かに力づけてくれる

人と比べてなんで自分ってこんなにだめなんだろう・・
と、落ち込むことはしょっちゅうある。
っていうか、つねにそうだ・・

そんな人を、夢の世界にふっと誘い込んでくれて
なんとなく力づけてくれるおはなしが
『とびらをあければ魔法の時間』
でしょうか。

「わたし」がいつも通るけど降りたことのない駅で
降りて歩いていると
「すずめいろ堂」という小さな家がある。
木の扉に
「注文の多い料理店」の山猫の店みたいな札が
かかっていて
<ためらいはいりません。すずめいろどきです。中へどうぞ。>
と書いてある。
中にはいると
言葉でなぐさめたりするのではなく、
動物たちがふつうに
「わたし」を迎えてときを過ごすのが
かえって心地よく感じます。

大きな字で、小学校1年生にも読める本です。
でも、ゲーテの詩のことばがなにげなく書かれていたりして
おとなはおとななりに味わえる面もあって、
静かに力を運んできてくれる、そんなお話。

で、表紙や本文の絵を描いている人が高橋和枝さんという人ですが
どうも見たことある絵だなー
と思っていたら、思い出しました。

以前に神保町の文房堂さんで見かけて
どうしても買いたくなって買っていた本
『くまくまちゃんのいえ』。
2015-02-18 001

2015-02-18 002

このくまくまちゃんの話も、
くまくまちゃんと
その家を訪ねる「ぼく」との二人(?)の関係が
自然で静かでゆっくりで
とても惹かれたのです。

二人の会話は「あまりはずまない」のです!
でも、「あまりはずまない」のは
悪いことではないんです。
気まずいとか つまらないとかいうことではないんです。
無理してしゃべることが快適なこととはかぎらない・・
そういう関係のほうが好きな二人もいる、
ってこと。

『とびらをあければ魔法の時間』の作者は
高橋さんではなく
朽木祥さんという方ですが
そういえばくまくまちゃんのおはなし読んだなー
と思い出すような似たところがあります。

おとなもたまにこんな童話・・いいですよ。
おやすみ前なんかに最適かも。

 

読むと心がきれいになる、2ひきのこぐまのおはなし

作者のイーラは、1911~1955ということは、
日本でいえば昭和30年ごろに、
44歳でなくなっているということ。
そのくらいちょっと昔の本なのですが、
おとなの目にはレトロに感じられるところが魅力でもあり。
でも、モノクロ写真が醸し出す森の張り詰めた空気感は
意外なくらい迫力があります。

2ひきの兄弟のクマの姿がモノクロの写真で
しぜんに、しかも驚くほど表情豊かにとらえられています。

まいごになって、森のあちこちを歩いて歩いて
おかあさんを探す2ひきの足どりと、息遣いまでが
伝わってきます。
それに、歩きに歩いているいろんなかっこうをした2ひきの姿が
どれもかわいらしさ満点なんです。

読んでいる人も、2ひきといっしょに森の落ち葉を踏みしめて
ちょっと不安になりながら
初めての道を進んでいる気持ちになります。

いろんな動物に会って
探しているおかあさんについて尋ねる口調が
礼儀正しく美しい言葉遣いなのも
心地いいです。

読後に心がほんとに満たされる絵本です。

 

絵画を見るなら絵と画家を愛して見たいもの

絵を見るとき、
「どうやって見るのがいいのか」とか
「どういう経緯で描かれたものか」とか
「どういう考えを持っていた画家か」とか
いろいろ予備知識のようなものが気になることも事実です。
けど、絵そのものにまずは向き合って
自分の生の感性で感じ取ってみる。
知識はそのあとからでもよいですよね。

画家と作品への愛を持って美術に接することができるのは
ほんとうに喜びなんだなー
そうやって美術に接したいなー
と、つくずく思わせてくれるのが
原田マハ『楽園のカンヴァス』なのです。
これを読むと、この作家さんの他の作品もぜひ読みたくなります。

美術だけでなく、なんの芸術でも
心から愛を感じて接することができると幸せだなーと思います。

 

むかし自分が持っていたピュアな心を発掘してくれる

むかしは「知恵おくれ」っていうことばがあったな。
その表し方は、その人に対する考え方の表れで、
そこには、蔑みの気持ちではないものがある気がします。
じっさいに障がいのある人に会うまえの子どものころに
この本を読んだような気がします。
障がいのある人への心って、案外こういうところで
形成されているかもしれません。
「知恵おくれ」の「じろはったん」(次郎八という人の愛称なのです)に、妙に偏見を持たずに
「こういう人」として純粋に接する人たちが
心地よいです。
このものがたりは、
疎開(の子どもたち)をいじめたり疑ったりする心も出てくるし、
戦死もある。
そういう醜い面、苦しい面も描きながら
人びとを押し流しつつ時は流れて
じろはったんも死ぬ。
人の生きる営みは、こうして絶えず続いている・・
っていうことを淡々としかも容赦なく
訴えかけてくるものがたりです。
じろはったんの村に疎開してきて
村の人びとやじろはったんに世話になった
小学生と先生の様子やのちに届いた手紙が
むかし自分が持っていたような気のするピュアな心を
思い起こさせてくれます。

 

自分が今の自分になったモトを発見する・・児童文学の効用

子どものころに読んだような気がする・・・
題名も、もちろん作者も忘れたけど、
子どものときに読んだ本の中の世界の空気を
思い出すことがあります。
そして、この空気、もしかすると
自分の心にずいぶん大きい影響を投げかけているかも・・
と思うこともたまにあります。

パトリシア・C・マキサック『クロティの秘密の日記』を
読んだら、
読み終わるころになって
『アンクル・トムの小屋』を読んだことを思い起こさせられました。
トムの静かで理性的な人柄。
そして、物語の中に出てくる人たちのうち、
黒人だとあたまから高飛車に接する人と、
人間として誠実に接する人の両方がいるのを
少なからぬ衝撃を受けながら
読んだことを思い起こしました。
それまで体験したことのなかった衝撃だったんだと思います。
この人はなんでこんな境遇になるのか、
そして、それをじっと耐えて受け入れている態度に
心を動かされていたんだと思います。
静かなその態度がわたしのその後の生きる態度に
影響を与えていたんじゃないかと、
ふと、そう感じました。

クロティという少女が黒人だから
教育を受けることができないという環境のもとで
字を覚えてひそかに日記を綴るというこの物語を
読み進むうちにそんなことを思いました。

日本のいなかで、人種差別ということを知ることなく
くらしていた子どものわたしの心に
本が、
新しい衝撃と、
どんな人がほんとうにりっぱな人なのか、
っていう さざなみを残したというわけです。

おとなになってから読む児童文学の効用って
自分の心を形成したものを発見することでもあるんだと思います。

 

人は時代の中で生きる

200年前の祖先の肖像画から
次第にわかってくる歴史・・

年表に書かれた項目の下に、
その時代の人びとがどのように
毎日を営んでいたかが埋もれている。
人はずっと、時代の中でもがいて生きるものだったのだと
改めて思う。

パトリシア・ライリー・ギフ『語りつぐ者』

 

不器用な生き方でいい・・『「また、必ず会おう。」と誰もが言った。』

自分はどちらかというと人間嫌いだ、と思う人・・
そんな人はこの本を読むといいかもしれません。
かく言うわたしがまさにそうだからです。

生きてるからには
楽しいことが多いほうがいい。
ほのぼのしたい。

でも、ニュースなんかで聞くのは
おかしな事件ばかりだったり、
電車内でのマナーの悪さだったり。

人間なんて質が落ちるばかり。
時がたつにつれて世の中住みにくくなるに決まってる。
そう思うことがよくあるから、
物事を深く考えず、
毎日できるだけいやな思いをしないように生きよう、
なんて考えています。

ところが、この本を読んだら
「世の中捨てたもんじゃない」
「人間も捨てたもんじゃない」
と思えました。

やっぱり、「捨てたもんじゃない」人たちと
縁を結ぶためには、
自分にそれを受け取るだけのものを持っておかないと
いけないんじゃないかなー、
と思う。

だから、
ばかと言われても
不器用と言われても、
ばかで不器用なままでいいんじゃないかな?

そんなことを思わせてくれる小説です・・・

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生き方が純な人ほど異端視されるけど—-フォスターさんの郵便配達

純な心を持って生きると、
まわりからは異端視されることがよくある・・
『フォスターさんの郵便配達』の
フォスターと友人のイスマエル。
謎の人物二人は、過去の、あることでつながっていた。

信念があれば、他人にどう思われようとだいじょうぶ。
離れていても、時を超えても
互いを尊敬しあって、友情を持ち続けることができる。
主人公の少年はすでに、まわりから異端視されつつあったけれど
フォスターさんとイスマエルに出会うことができて
広い世界を見つめて、まっすぐに歩いていくことが
できるでしょう。
そんな気がして、なんとなく自分も心の奥に
「純粋」という芽が出てくるのを感じました。