時がたつとわからなくなるもの お芝居のセリフ

『四谷怪談』序幕 浅草寺境内額堂の場で、

「藤八五文奇妙」(トオハチ ゴモン キミョウ)

というセリフがある。

昭和24年に出たとき、その場が上演されるのは明治10年以来(!)で、

いったいどんな意味なのかわからない。

したがって

軽快に言うべきか、ゆったりと言うべきかも

見当がつかなかった。

そういうとき、どうするんだろう?

『日本随筆索引』で調べた人がいた。

八代目三津五郎だ。

すると、続飛鳥川という文章の中に

「藤八五文奇妙という薬売り、藤八は甲州の生まれで日本橋中橋に家を持ち

藤八五文奇妙といいながら売り歩いた。

鶴屋南北が『東海道四谷怪談』で

幸四郎の直助権兵衛にこの薬売りの役をやらせ、

又々評判になった。」

とあった。

そのほか、『甲子夜話』『続随筆索引』にも

それぞれ記述を見つけたという。

そして、このセリフが、初演のとき、

そのときの幸四郎と七代目團十郎の

楽屋落ちを舞台で言ったものだとわかった。

 

初演時には、みんなが当たり前にわかったギャグが

後世の人には皆目理解不能になってしまう。

 

売り声などもそういう例だ。

清元や小唄にかろうじて残っているのを喜ばなければならない。

 

また、「バレ句」は、もともとわからないように作ってあるものとはいえ、

時間がたつとさらにわからなくなる。

忠臣蔵八段目の

「ししきがんこうがかいれいにうきゅう」って????

坪内逍遥博士も高野辰之博士もすでに不詳と書いていた!

それを名古屋の尾崎久弥氏が『江戸軟派雑考』で考証しているということに

行き着くほうも行き着くほうだね・・

八代目三津五郎の読書ってどんなだったんだろう?

ちなみに上の「ししきがんこう・・・」は

「紫色雁高我開令入給」のことで

猥本の檀浦軍記の中の「バレ句」である、と書いているそうです。

つまり、戸無瀬が小浪に性教育をしているところへ

奴が通りかかり猥談をしていたということなんだそうな。

漢詩風のバレ句には

虎竜一番知唐薯矢張奔馬醉准南(こたつで一番しりからしょ、やっぱりほんまがよいわいな)

なんてのがある。

八代目三津五郎『いわでものこと』

国木田独歩「画の悲しみ」、日の光が明るければ明るいほど悲しみが増すこと

ともに絵を描くことが好きで得意な二人の少年、岡本と志村。

一緒に写生をしたことをきっかけにほんとうの友だちとなって

中学校に進んでも寄宿舎でともに過ごしていた。

しかし、志村は事情あって故郷の村へ帰り、

岡本は東京へ遊学。

数年たって岡本が故郷へ帰ってみると・・

 

ごく短い話なのですが、読む者にしみじみとした感慨を残します。

年月の流れとともに、止むことなく移ってゆく人の存在と

あの日と変わらぬ日の光を浴びる山河。

この対照がいつも人の心を動かしてきたと思います。

 

考えてみれば映画やドラマなどでも、

「ああ、あの人がここで笑って立っていたっけ」

「ここを毎日通ったけど、もう通ることもないんだ」

という感動が作品に深みを与えることって多いようです。

泣かされるのもそういう場面。

 

「画の悲しみ」を読んで思い出したけど、

本を読んでいて

「思わず読み返したくなるフレーズ」ってありますね。

もう一度味わわずにはいられない部分。

この作品の最後のところはまさにそれでした。

仕事以外でも毎日生かしたい「わかりやすく伝える技術」

きょう読んでいるのは

池上彰 『わかりやすく<伝える>技術』 講談社現代新書

似たような題名・内容の本を

これまでにも読んできたような気がしますが、

何度でも読んでみたくなっちゃうテーマではあります。

仕事でだれもが必要なのはさることながら

仕事以外でも、つい数週間前に、

わたしの所属する「聞き書き」の会のメンバーとして

区民大学なる講座で、受講のみなさんに説明をする機会がありました。

どのくらい聞き手に興味を持ってもらえたか、

言いたいことをわかってもらえたか、

まだまだ技術と工夫が足りない~、

と痛感したばかりなものですから。

 

おぼろげにわかっていたような気がしても、

頭の中で明文化していなかったこれらのこと。
1 話にはリードをつける
2 予定所要時間をあらかじめ伝える
3 内容を箇条書きにしてみる
4 「対象化」(見える化)して内容整理する
5 「階層化」で話の柱や枝を作る

今だいたい半分読んだところです。
後半に具体的な方法が詳細に伝授してあるようです。

あした読んで生かさなくちゃ。

『蝶々にエノケン』読んでます

おもしろい逸話なのでメモしました。

中山千夏 『蝶々にエノケン 私が出会った巨星たち』講談社

の中に紹介される逸話です。
1962年2月の有楽町芸術座の
菊田一夫作・演出  <<怪盗鼠小僧>>に
筆者が13歳で出演していたときの話。

当時、菊田が松竹から招聘した歌舞伎の

八代目松本幸四郎と、
二人の息子、当時の市川染五郎・中村萬之助が来ていた。

弟子をおおぜい連れていて、現代劇の俳優たちとは
何から何まで違っていて、とっても珍しかったという。
で、おもしろいのが、
まだ大学生くらいだった兄弟について、
態度といい周囲の扱いといい、
まるで王子様のようだったというのです。

それに対して、関西の中村扇雀(現・坂田藤十郎)には
そういう空気を感じることはなかったというのです。
そして、そのこと以上におもしろいのが、
扇雀の父の二代目鴈治郎の様子。

あるところで、ほろ酔いのおじさんから
「息子、扇雀をよろしゅう、おたのもうします。」
と、冗談で土下座されたという話。

この違いは、関西歌舞伎と関東歌舞伎の違いなのか、
一門による違いなのか、
人間のタチによるのか・・・
今もってわからない、
という結論? が書かれています。
実際、どれもが正しいのかもしれませんね~

二代目鴈治郎っていう人は、
逸話を聞いたり映画で見たりするかぎりでも
古い時代の大阪あたりの空気を
運んでくる人のように思います・・

王子様然とした態度 というのも貴重だし、
時代の空気を一身に醸し出しているっていう風情も貴重だな~。

 

あとから考えるからそう感じるんでしょうけど、

人間が画一的になってくると、

そういう「空気」を発散する人間も

いなくなってくるんだろうか・・?

おりおりの久保田万太郎

「悲しいことがあると

開く革の表紙・・・・」

ではないですが、

季節がうつろうと取り出す書物

ってありませんか?

久保田万太郎の俳句集

って、わたしにとってそういう書物のひとつです。

生きているときは、毀誉褒貶あった人らしいですが、

その作品は、今もわたしたちの心に

さびしいような昔恋しいような感情を持ってきます。

わたしにとっては、一時期、東京の根津に住んでいたころ、

浅草や入谷や根岸をよく歩いたので

そのころの思い出と相まっているな~

と感じます。

 

おりおりの俳句や短文や小説を読むと、

古い時代の東京下町に暮らした人たちの

息づかいが甦ってくるようで、

想像をかきたてられるのです。

静かで慎ましくて身の程をわきまえていて・・

っていうんでしょうか。

そういう暮らしぶりを、忘れないでいたいな、

という感情とともに。

梅が咲くころの久保田万太郎俳句ひとつ。

長火鉢抽斗かたく春の雪

 

当時の役者さんや地方さんたちの消息も出てくるので

そんな興味も手伝っています。

(實川延若、毎日演劇賞をうく)

火をふいて灰まひたたす余寒かな

 

こんなことを考えていると

「もっと古本市に行きたいな~」

という気持ちがにわかに高まってきます。

金曜土曜に労働していると、

なかなか神保町の古書展にも行かれないし~

人生はそんなふうにして過ぎていくのであった・・・

っていう実感です。

 

『現代俳句文学全集 久保田万太郎』の装丁

 

君子の交わり淡きこと 『日本の鶯』


堀口大學聞き書き『日本の鶯』という本、読んでます。
関洋子さんのお仕事。
歌舞伎役者さんのことを書いた本を数冊、おもしろく読ませてもらってた方。

堀口大學って、萩原朔太郎のことを「萩原くん」って呼ぶような古い(?)人だったのか・・

最初のほうですでに何箇所も、共感したり、驚いたりする内容が多くて、
じっくり読んでなかなか前へ進まない、っていう状態です。

中で

「君子の交わり淡きこと水のごとし、
小人の交わり甘きこと醴(れい)のごとし」

という言葉が紹介されていて、「したり」なんて感じ入ったりしました。

佐藤春夫が、
太宰治に泣いて頼まれて
「東陽」という雑誌に原稿をとりもってやったとき、
「不変の敬愛」とか「命かけての誠実」とか「大恩人」とかいう言葉で
言ってこられるのを
小うるさく感じて挙げた古人の言葉なんだそうですが。

醴は甘酒のことで、
小人の交わりはベタベタと甘いばかりだと言っているそうです。
わかる~
とても賛成する~

佐藤春夫は太宰治を嫌っていたわけではなく、
むしろ文学青年として深く思いやり、
面倒をみていたことは確かだけれど、
ときにうっとうしかったというわけで。

だんだん人間をやってる期間が長くなってくると、
自分より年少の人々の言動がうっとうしく、青臭く感じることが
ままあります。
それでも、自分も以前はあんなふうに不愉快な代物だったんだろう、とか
あと十年二十年すれば彼らも相応に分別くさくなったりしていくんだろう、とか
思ったりしますけど。

大學さんと佐藤春夫も、二人でそんな話をしたことがあったと書いてあります。
というよりは、佐藤春夫が、太宰治のことを
不勉強で生意気で人の気心を知らない、ひとりよがりで人を人とも思わぬ、
そのくせ自信のまるでない・・・
とか言って止まらなくなっていたのを、
大學さんが上のような内容を言ってなだめる、という場面が紹介されています。

今の若いもんは・・は太古の昔からのくり返しなんですからねー。

で、
「君子の交わり淡きこと水のごとし」
には、はなはだ共感します。
比べるべくもないけど、
わたしも日常の付き合いはこれに限ると思っているほうです。

ちょっとベタついてくると、すぐに離れたくなるたちで。
そんなとき
「サヨナラだけが人生だ」
という言葉を心の中で勝手に誤用させてもらっています。
井伏ファンならだれもが知っているフレーズっていうのが
いくつもあって、そのひとつかな。
あと代表的なのが、
「ところが会いたい人もなく
阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ」
っていうところか・・

名文句・名セリフは、
いろんな局面に応用できるのが名文句・名セリフたる所以ですね。

グラス詩画集『蜉蝣』についての文章で蕎麦屋で一合のお酒なんか飲みたくなる

ギュンター・グラスが詩画集『蜉蝣』を出版したことについて、
ある方から聞いて知りました。
そして、その方が朝日新聞に書いた文章を
読ませていただきました。
ドイツ文学について、昔かじったことがあるけれど、
もう縁もゆかりもなくなって30年も経ったので、
読んでもわかる自信なし・・。
でも、日本語なので、いちおう「読む」ことはできたというわけで。

『蜉蝣』のなかには、
「老人になって思い出す自身の過去への感慨がある」
と、書いてありました。

この「感慨」は、もっと詳しく言えば、
後悔というほどではないけど、
渋面になったり、
口元を軽くへの字に曲げたりする種類の
「感慨」なのかなー、と思います。

老人でなくても、わたしくらいでも、
これまで生きて来たなかにいっぱいあるその種の「感慨」。

だけど、そのときそのときで、一所懸命考えて判断してしたことだから、
そんなに自分を責めないでもいい。
現在の自分の身の日常茶飯事に触発されて
過去のたくさんの判断を
訂正しようか、と反省したりしなくていい。
自分の過去へのそういう対し方を
「哀愁」と思わなくたっていいじゃないか、っていう気がする。

そのあたりについて、
少しのお酒と少しの肴とともに、
あっさりと話し合えるような人と、ひととき過ごしたい、
なんて思わされる文章でした。

年の暮れは、芝浜・掛け取り、久保田万太郎

サライの付録に落語のCDがついていました。

志ん生の「芝浜」

円生の「掛け取り」

年の瀬の噺ということで季節を楽しめる内容。

はや年も暮れてきました。

年の瀬の雰囲気を味わえる文学は、

久保田万太郎・・

年の瀬をはじめ、冬のイメージがあります。

なんとなく寒々しい明治大正の浅草あたり。

酉の市の様子なんかが描かれたり

着ぶくれた姿で火鉢に当たる市井の人たちが

行き交っていたり。

きのうは冬至。

ちょうど柚子もあったことだし、

うちでも柚子湯にはいりました。

それで、かぼちゃも前の日に安いから買っておいて

ちょうどあったので、食べました。

今回は、ブログで行き来のあるoishippoさんの

トマト缶とサバの水煮缶のお料理にかぼちゃを入れちゃいました。

けっこういけました!

むかしなら、

「日毎に霜はいよいよ白い」

っていう時節ですね。

久保田万太郎作品を上演している

「みつわ会」公演。

今度の三月は

「雨空」

「三の酉」。

都合とお財布が許せば行きたいと思っています。

で、久保田万太郎の俳句集を広げて

どれか年の暮れの句をひとつふたつ載せよう、

と思ってページを繰っていると、

いつの間にか

どんどん句を読み進んでいき、

ブログ記事をアップするまでに

ひどく時間が経過してしまうのでした。

久保田万太郎の年の瀬の句から

ゆく年やしめきりてきく風の音

ゆく年や蕎麦にかけたる海苔の艶

久保田万太郎の句や文章からは

さびしくて美しい、ふつうの人々の息づかいが

伝わってきます。

そこに惹かれていつも心の底にそのトーンを持っています。

 

がんこさがまた気持ちいい

高峰秀子さんの本はいくつか読んだことがあって
いずれもエッセイのような本だったと思うが、
これは
『人情話 松太郎』
という題名だった。

小説か脚本のような題名だし、なんだろう? と思って買った。
そうしたら、川口松太郎と著者の対話形式になった
聞き書きとも言うべき内容だった。
川口の話を江戸風の口調をそのままに記録したい、
という意図で成った産物らしい。

いろんな話の中で、
昭和21年に撮影された(途中までされた)
阿部豊監督、池部良の丑松、高峰秀子の志保の
『破戒』という幻の映画があったことに話が及んでいた。

60人余りのスタッフと俳優たちが、
長野県の善光寺に近い宿屋に陣取って撮影に精出した。
監督も相当なねばり屋だったが、
小原穣二カメラマンがそれに輪をかけたスゴイ人で、

 

「あの山の上に、ポッカリと白い雲が出ないうちは、カメラをまわさないからな」

 

とカメラの後ろに腰をおろして腕を組んだまま

ちっとも動かなかった。

何日待っても「ポッカリ雲」は出ず、

それを待っているうちに、

丑松と志保のラブシーンの背景になるリンゴ畑のリンゴが

一つ残らず地面に落ちてしまったんだって。

 

それから後のロケーションにはいつも

助監督さんが果物屋をかけずり回って買い集めたリンゴの箱が

現場にうずたかく積み上げられていて、

スタッフみんなは言うに及ばず、

白絣に木綿の袴の丑松も、桃割れ姿の志保も

撮影前の小一時間ほど、

リンゴを木にぶら下げる作業で忙しかったんだって。

そうこうするうちに、東京から

ゼネラルストライキだから即刻引き上げるように電話がはいって

『破戒』は立ち消えになってしまったのだそうだ。

見たかったねー、その映画。

 

監督あるいはカメラマンのこだわりようは、今もあるようで、

たしか、『武士の一分』で

敵討ちの場面のとき、

山田洋次監督が、

風が周囲のススキを揺らす、

その揺れ方が丁度いい感じになるまで撮影を進めなかったとか、

聞いた気がします。

画面の効果としてだいぶ違うんでしょうね。

全然揺れないのとか、大風すぎるのとは。

 

話者二人は、永年演劇界、映画界で

いろんなことをくぐり抜けてきた苦労人というべき人たちだけあって、

それぞれの話がおもしろいのと、

それぞれの生き方がにじみ出ていて

がんこさがまた気持ちいい域に達しているようです。

 

敢えて「愛」なんて言葉は使いたくないほどウツクシイ 『三文役者あなあきい伝』

殿山泰司『三文役者あなあきい伝』ちくま文庫
を読みました。
殿山さんは89年に亡くなってるんですね。
まだまだ私なんかいろんなことがわかってなくて
いい気になってたころだな。
映画やテレビに出てたのは覚えている。
文章に気負いがないというのか衒いがないというのか、
なかなかそうはなれない書き方だと思う。
どうしても自尊心が文章のはしばしにでちゃう書き手が多い。

それで、泣けちゃうところがあちこちに。
一人っきりの肉親である弟さんは昭和20年、ビルマで戦死した。
いつも兄である筆者のことを
「タイチャン!!」
と呼んでいた素直でかわいい弟。
筆者の代わりに家業を継ぐことになって、
察するに、そのときに人生のいろんなことを諦めた弟。
ずっと後年、映画の仕事でバンコクへ行ったとき、
筆者は知り合った在留邦人のひとに頼んで
車でビルマとの国境へ連れて行ってもらった。
「戦場にかける橋」の鉄橋のあるところだ。

河の向こうに、弟が死んだビルマがあった。
それは茶色っぽい平原であり、
その遙か向こうに芝居の書き割りのような山々があった。
筆者は声を限りに
「コウチャン!!コウチャン!!」
と弟の
名を叫んだ。
叫ばずにいられなかったのだ。

その描写のあとに続く
「お笑いくだされ諸兄姉よ。だけどねミナサン、・・・」
以下の文章は名文です。
真実、心からの叫びを文章で表すのは至難だけど、
それのできる人なんだな〜〜
ウマイ!ウマイんです!!
何度読んでも泣けます。
なんという兄弟の結びつきだろう。
敢えて「愛」なんて言葉は使いたくないほどウツクシイのです。
この本、おすすめです。

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