目の前に宝物があるのに、だれも気がつかない 『くつなおしの店』

アリスン・アトリー『くつなおしの店』読みました。
こみねゆらさんの絵がまた良いです。

300年間、同じようにたっているバッキンガムシャーの通りの家々。
その中に並んで建つのが、ブリキ屋の店とくつなおしの店。

町に大きな店ができてから
ここでやかんやなべを買う人はあまりいなくなったブリキ屋の店は、
おかあさんと足のわるい女の子の二人ぐらし。

くつなおしの店は、
昔、ブーツ作りの名人だったが
機械でつくるぴかぴかのブーツがはやりだし
注文が減ってくつなおしばかりするようになった
ニコラスじいさんと孫の男の子の二人ぐらし。

男の子は、足のわるい女の子のために
誕生日に軽いくつをあげようと
貧しい中からおこづかいを出してニコラスじいさんに
くつ作りを頼みます。

市場で買った小さな赤い皮で
じいさんは女の子のために、かわいいくつを作ります。

そのくつの中に、足がいたくないようにと
男の子が、自分の手で
柔らかい羊の毛をはってあげるのです。
誰も見向きもしないところに散らばっているのを
一生懸命に集めて。

乏しいお金で買った皮で女の子のくつを作ると
もうほんの切れ端しか残らないけれど
じいさんはそれで、小さな小さなくつを作ります。

それはじいさんにとって
久しぶりの好きなくつ作りの仕事で
美しい音楽を聞くような楽しいひととき。
夢中で針を動かしてできあがったくつは
この世のものでないかのような、みごとなくつ。

くつなおしの店の窓辺に
かわいらしい赤いくつを見つけて
大ぜいの妖精たちがやってきて歌うのを
心から祝福したくなります。
毎日のくらしは、
「つまらない」繰り返しをまじめに続けることこそだいじだと
改めて気づかされました。

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転んだらけがをするかもしれないけど 『転んでも、大丈夫 ぼくが義足を作る理由』

『転んでも、大丈夫 ぼくが義足を作る理由』

「体に障がいをかかえても、残された機能を精一杯使って
生きている人たちがいる」
ここでは、足の一部を失って義足を使う人たちのこと。

義足を作る人・臼井さんは、義足はかくすもの、と考えず
体の一部として見せるものへと変えようとしています。
はじめの8ページ分に、カラー写真が載っていて
義足を作る作業中の臼井さんの姿と
義足でスポーツをしたりファッションショーをしたりする人たちの姿が
紹介されています。

たとえば、交通事故で右足をひざ下から切断した18才の青年
鈴木くん。
ハンドボール選手だったけど、体がぶつかり合うプレーが多いため
陸上の走り高跳びへ転向。
どんなにつらくてもへこたれない彼の姿に、
トップアスリートは、競技の才能だけでなく
努力する才能も持っていると、感じるという。

そして強くなる人は、ものごとを自分で考える。
わからないことがあるときは、自分から
具体的に質問や相談をしてくるそうです。
きっとそれは、義足のことに限らず
生きる姿勢そのものなんですね。

臼井さん自身、学校を卒業後、自分の進路を決めかねて
仕事をいくつか変えたりした時期があったそうです。
そんな経験もあるから、義足をつける相手の人の気持ちも
くみとることができるのかもしれません。

足が不自由な人は、
転んだらけがをするかもしれないから
家に引きこもってしまうことが多い。

「転んでも、大丈夫」 という題名は、
転んでも、一人で起き上がれるように練習しよう、
一人で起き上がれる、と思えるようになると
走り出す勇気がわいてくる
という意味。

臼井さんが義足を作る理由は、
患者さんの未来をちょっとでも明るくできたら、
という希望からだそうです。
決して大げさでなく、悲しみを背負った人が
それを乗り越える手伝いになったらうれしいという気持ちから。

体が不自由、という意味では、
それが外に見える見えないという差こそあれ、
不自由な人はたくさんいる。
わたしもその一人。
見えない不自由さを持っている人はそれゆえに辛い、というのも事実。
体の不自由さ、心の不自由さを抱えながら生きるわたしたちが
よりおおらかに生きられる世の中になると、いいと思う。
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死ぬまではたしかに生きよう

みじかい話が7つ。
どれもテーマが生きることにつながっている。
壮絶な逸話ではない。
・・・けれど、壮絶に感じられない書き方をしているだけなのかもしれない。
そこにひそむ真実は、壮絶そうな逸話よりはるかに深いようにも思う。

「クマのあたりまえ」で
足をかいて歌って食べて寝てにいちゃんに会えること
が、あたりまえのこと、
でも、ひとたび失われると二度と手許にもどってこない。かわいい2頭の後ろ姿は
ひとたび失われれば永遠にこの世にないものになる・・

「朝の花火」なんか
きわめてのんきな雰囲気のうちにお話が進むけれど
ああ、人(じゃないけど)って、
こんなに心が高貴なのかもしれない、
という
美しいがゆえの、底知れないはかなさが
おもいっきりにじみ出てくるお話です。

 

 

動物は気高い・・人にはとてもまねできない

町に近い山に住む犬たち。
「野犬」は、今や
もともと野犬だった犬たちだけではないらしい。
人に飼われていた犬が野犬にならざるをえない場合がある、
という、やりきれない事実を含んで話は進む。
犬どうしのつながり合いは、
動物としてあたりまえのことなのに、
われわれ人間から見ると
崇高
に感じられてならない。

「片目の青」は、そういう犬の一匹。
決して人に心を許さない。
そうなる理由があったから。

いったいこの話を作者はどうやって
終わりに導くんだろう?
と思いながらやめられなくなって読み進んでいく。

おとなの悪いところは世慣れているところ、
みたいに言われるけど、
(心ある)おとなは
世の中が自分の思うようは行かないってことを
知っているだけなのだ。
それをなんとか折り合いをつけようと苦しんでいるんだよね。

動物たちの無心さ、気高さ
人間のどうしようもなさ、
それでもなんとかやりきれなさに耐えて
生きなければならない葛藤

ってものを身近なところを舞台に描いています。

動物を愛する人のピュアな心が
多くの人に広がるといい。

 

人もネコも、友だちっていいな

くろねこのロクが、
6つの家族にごはんをもらいながら
毎日を暮らしていました。

「ロク」っていうのは、
いつもごはんを 6杯 食べるからついた名前なんです。

6つの家族が同じ時期にバカンスに出かけることが
ないとは言えないですよねー。
ロクの身の上にも、そのないとは言えない確率が
的中してしまったんです。

ロクはその間
どうやってごはんを食べていればいいのでしょうか?

それからが
友だちっていいな
と思わされるなりゆきになるので安心してください。

しかも、絵がとても美しくて、
街も山も野原も
人も猫も
繊細に描かれていて
絵をたどるだけでも何度もページをめくりたくなります。

 

逃げても、ほんとうに行きたいところへは行けないけど

人間が集まるところ、いじめがある。
ほとんど本能なんだと思う。
だれかを疎外して多数が安住する。

作中、
疎外されたら、
近づこうとしちゃだめだよ、逃げたほうがいい、
傷つくまえに、
と言われる。

学校で同じ年の人たちの集団の中にいるのが
たまらなくいやになっている主人公たち。
他の人と違うことをやったり言ったりすると
はじかれる。

傷つかないように逃げたほうがいいんだけど、
逃げることではまだ、
ほんとうに行きたいところへは行けない。

そこから先どうするか、
考えなきゃならないときが来る。
子どももおとなも。

 

ずんずん読めて、明治の空気感にひたれて、意外な展開がいっぱい

ちょっと太めでとろめの12歳の男の子 大和が
茶碗の中のお茶に映った見知らぬ男の顔を
見たことから、明治時代に迷い込んでいきます。

大和の先祖は、梅枝(うめがえ)家といって当時、男爵。
彩子、勇二郎、新子という3人の子がおり、
どうも大和はこの勇二郎と
入れ替わってしまったようです。

彩子の婚約者・葛城伯爵は美男で一見完璧な人だけど
梅枝家の屋敷にいつの間にか忍び込んでいたり
壁をすりぬけて消えてしまったり
怪しいところがあります。
しかも、腕には謎の傷を負っている。

そんなとき、勇二郎の妹・新子が何者かに誘拐される。
大和は、以前 梅枝家に仕えていた車夫の簑吉とともに
新子を救出に向かうが、
突き止めた場所はなんと、葛城伯爵の屋敷だった。

新子を見つけ出し、
ナイフを振りかざす伯爵に簑吉が立ち向かうと、
伯爵の口は耳まで裂けている・・

小泉八雲『茶碗の中』はあるところで話が途切れているが
それはなぜなのか、ここで明らかになる。
また、簑吉もただの車夫ではありませんでした。

え~、そうだったの?
というどんでん返しがいくつも用意されていて、
最後まで一気に読めます。

ミステリーであって
歴史ドラマであって
日本人の心や美しい日本語に出会う文学であって・・
というエンターテインメント佳作だと思います。

 

クサヨミ~植物の声が聞こえる少年の体験

植物や動物や風・水などが発するものを
感じ取ることができる力が
備わっている人とそうじゃない人がいるとしたら。
自分はどっちかな。

「クサヨミ」は、植物から何かを感じ取る人のこと。

中学に入学したばかりの剣志郎は、
学校にある古いタラヨウの木に触れると
その木が過去に遭った事実が見えることに気づく。
あるとき、炎に包まれる学校と、
桔梗という名の寂しげな少女の姿が見えた。

過去に自分もクサヨミであった理科の先生にそれを見抜かれ
雑草クラブに誘われたことから
剣志郎は、自分がクサヨミであることを知る。
さまざまな植物に触れて、
見たこともなかった光景の中に立っている自分を
感じるようになる。
さらにパワーが高まったときには
植物が材料になったタオルや畳に触っただけで・・。

同じようにクサヨミである2年生の希林とともに
植物からのエネルギーを感じつつ
不可解な経験もかさねていく。

そして、クサヨミ能力全開のとき
タラヨウの木に触れたために
学校を包む炎の真っ只中に入り込んでしまう。
学校の記念誌から、
そのとき校舎は全焼したことがわかっていた。
そこにはあの少女もいて
大勢の人とともに逃げ惑っていた・・

21世紀空想科学小説 と銘打ったシリーズの一つです。

 

自分が今の自分になったモトを発見する・・児童文学の効用

子どものころに読んだような気がする・・・
題名も、もちろん作者も忘れたけど、
子どものときに読んだ本の中の世界の空気を
思い出すことがあります。
そして、この空気、もしかすると
自分の心にずいぶん大きい影響を投げかけているかも・・
と思うこともたまにあります。

パトリシア・C・マキサック『クロティの秘密の日記』を
読んだら、
読み終わるころになって
『アンクル・トムの小屋』を読んだことを思い起こさせられました。
トムの静かで理性的な人柄。
そして、物語の中に出てくる人たちのうち、
黒人だとあたまから高飛車に接する人と、
人間として誠実に接する人の両方がいるのを
少なからぬ衝撃を受けながら
読んだことを思い起こしました。
それまで体験したことのなかった衝撃だったんだと思います。
この人はなんでこんな境遇になるのか、
そして、それをじっと耐えて受け入れている態度に
心を動かされていたんだと思います。
静かなその態度がわたしのその後の生きる態度に
影響を与えていたんじゃないかと、
ふと、そう感じました。

クロティという少女が黒人だから
教育を受けることができないという環境のもとで
字を覚えてひそかに日記を綴るというこの物語を
読み進むうちにそんなことを思いました。

日本のいなかで、人種差別ということを知ることなく
くらしていた子どものわたしの心に
本が、
新しい衝撃と、
どんな人がほんとうにりっぱな人なのか、
っていう さざなみを残したというわけです。

おとなになってから読む児童文学の効用って
自分の心を形成したものを発見することでもあるんだと思います。

 

人は時代の中で生きる

200年前の祖先の肖像画から
次第にわかってくる歴史・・

年表に書かれた項目の下に、
その時代の人びとがどのように
毎日を営んでいたかが埋もれている。
人はずっと、時代の中でもがいて生きるものだったのだと
改めて思う。

パトリシア・ライリー・ギフ『語りつぐ者』