小学校生活最後の1年、つぎつぎ起こる「事件」 『チームふたり』


4年になってクラブを選ぶとき、
軽い気持ちで卓球クラブを選んだ大地。
でも、だんだん本気になってきた。
引退試合で県大会に進みたいと思ってがんばっていたのに
顧問の辻先生は、
大地を5年の純とダブルスで組ませた。
最初不満だった大地だけど、
素直でがんばり屋の純の姿に
教えられることが多くあることに気づいていく。

けれどもそんなとき、父さんが会社をやめなければならなくなって、
卓球をやってる気分じゃなくなった大地。
だって、給料がもらえなくなったらうちの家計が苦しくなる。
新聞販売店に働かせてもらえるように頼みに行く大地。

卓球が楽しい、試合に勝ちたい、なんていうのは、
自分に余裕のあるときじゃなきゃだめなんだ、と気づく。
自分がそうなってみてやっと
女子の卓球部員のルリが練習する時間がないって言ってた家庭の事情に
心がいくようになるのだ。

父さんはふさぎこんでてカッコ悪い。
けど、母さんは、いち早く立ち直ってこう言う。
「正しいとかまちがっているとか関係なく、どうにもならないことが起こる。」と。
だからといって、だれかを恨んだり文句を言ったりしていてもだめだ。
そういうとき、仲間と手をとりあってがんばるんだ、って。

「チームふたり」っていうのは、ダブルスを組んだ大地と純であり、
父さんと母さんであり、
苦しいことを乗り越える仲間に共通のきずなです。

自分が人の良いところを見るようになると
相手の人も知らず知らずのうちに自分を助けてくれている。
それはそのときには気づかなくて、あとから気づく。

生まれて12年、
他人の気持ちに思いをいたすことができるようになる
最初の心の成長物語かもしれません。

奮闘する、考える、どう生きるかを 『奮闘するたすく』


小学校高学年男子が奮闘するっていうと
なににだと思います?
奮闘ざかりですねー、10代前半。
野沢佑(たすく)、奮闘します。

けど、はじめから奮闘する気ではなかった。
それどころか「え~っ」と、げんなりした声を出し、
次には「無~」と、心からの拒絶の声が出かけていました。
が、拒絶できないはめにおちいったのです。
そのわけは?

そして、将来は人気芸人になるのが夢の友人、一平とともに
夏休みの宿題として
はじめはいやいやながら
奮闘します。

たすくは4年のとき、死んだあと人はどこにいくのか、と考えました。
それは、学校図書館で宇宙図鑑を見たときのこと。
2年前祖母が死んだとき、人は死んだら星になるって大人たちが言っていた。
この宇宙図鑑の写真の中に死んだ人もいるんだろうか、と思ったのだ。
もちろん4年生のたすくも、それはファンタジーの世界だとわかっていた。

人は死んだら空に行く。
空の上には宇宙がある。
そのどちらも自分は確かめたことはない。
けど、どちらも自分の頭の中にある。
じゃあ、もし自分がいなくなったら?
宇宙はなくなる。だって、考える自分がいないんだから。
今こうして、自分だとわかる自分がいて
その自分が亡くなった祖母のことを思ったり、
宇宙のことを考えたりしている。
ここに、おれと思えるおれがいる。
だからそれでいい。
と思ったちょうどそのとき、チャイムが鳴った。

図鑑を見ているうちに、
はるかな宇宙を旅して自分に戻ってきたみたいな
膨大な時間だった。

女子に「下品」だって糾弾されるCMの替え歌を歌いながら
走っちゃいけない学校の階段を全力疾走するたすくと、
宇宙図鑑をめくりながら人の死について考えるたすくと、
エプロン姿でまじめに見習いの仕事をするたすくと・・・
どれも「奮闘するたすく」だ。

そして、表紙の絵にあるように、
どの人も自分と思える自分が納得いく生を生きるために
奮闘しているんです。

アメリカ児童文学の300年の歴史を見渡す500ページ 『アメリカ児童文学の歴史』

アメリカ大陸に渡ったヨーロッパ人たちが
「読むこと」を大切にしたのは、なんとなく想像できる。
聖書を読み信仰を深め、神による救済を求めなければ
生活そのものが成り立たなくなるかもしれない
暮らしだったはずからだ。
精神を鍛錬し、教育制度を確立させなければ、
社会の秩序が保てない急務だったはずだ。
アメリカで本を出版し
図書館で多くの人が読むことを可能にするのは
日本のような国より不可欠だったのだろう。

松岡享子さんがボルチモア市の公共図書館に勤務していらしたことを
読んだことがあった。
日本ではまだまだ図書館の数が少なかったころ、
アメリカでは、子どもたちが本に親しむ環境がはるかに整っていたようだ。

そんなおぼろげな知識があったので、
「アメリカ児童文学の歴史について読んでみようかな」と思い
題名で探してこの本に行き着いてみると、
なんと、大部の分厚い専門書と見える本だった!
「自分には難しすぎる」と感じて気持ちが引けたが
せっかく見つけたのでいちおう、借りてきました。(笑)

内容を詳しく読み込むことはできませんが
(専門的で詳しすぎて)
植民地時代から始まってハリーポッターで終わるまでを
飛ばし読みしつつページを繰りました。

児童図書週間という行事が1919年に初めて開催されたとありました。
また、世界で初めて児童図書編集部がマクミラン社にもうけられたとも。
日本で言えば大正時代。

児童文学作品の書かれた年代について
あまり考えていなかったことを認識しました。
つまり「この作品、そんなに古かったんだ~」
なんて感心するものがありました。
『ホビットの冒険』
『かもさんおとおり』
『ひとまねこざる』
『ちいさいおうち』
『ぞうのババール』
などです。

アメリカ特有のことも知ってなるほどと思いました。
メイフラワー号でアメリカに最初に移住してきた人びとが到着した場所は
コッド岬だということをはじめ、
アメリカ史上意義あるできごとをとりあげた子ども向けシリーズを
刊行しようという動きのこと。
「史跡」シリーズとして店に特設棚ができるほどになったとか。
日本の歴史シリーズは漫画で何シリーズもありますが
あのへんの本を連想しました。

やまねこ翻訳クラブ会員の方が翻訳しています。

日本の児童書の歴史っていうと、どんなふうになるのかな。
どんな本があるのか、今後調べて読んでみたくなりました。

「スコットランド最後のオオカミ、この石の近くで射殺さる」 『最後のオオカミ』

「最後のオオカミ」というタイトルだから、動物物語だと思うと、
少し違います。
主人公は、孤児の少年ロビーです。
ロビーは、1795年に亡くなったスコットランド人。

もともと父も母も知らず、
偶然保護してくれた2番めの両親とは
戦争で死に別れました。
ボニー・プリンス・チャーリーという
スコットランドの歴史上の人物が率いる反乱軍が
イングランドに進撃した戦いです。

自分も敵から逃れて山に潜んでいるときに
母を殺された子どものオオカミと出会い、
チャーリーと名付け、それから「孤児」どうし、いつも一緒でした。

チャーリーを犬と偽って海辺の町で暮らしていたある日、
立派な紳士と出会います。
その人がロビーとチャーリーを新しい天地へと導いてくれることになるのです。
実は彼は大きな船の船長なのですが、
そんなに親切なのは、彼自身、悲しい過去を抱えて生きているからでした。

その後、読者の想像を超えた困難を経て新しい天地に着いた一人と一匹に、
うすうす予想されていた別れのときがきます。
ロビーは、そのときのことを思い出すと何年たっても涙があふれる、
と後年書いています。

「書いています」というのは、
これは、ロビーが後年書いた遺言書にあった物語だからです。
その遺言書こそが、この物語だったのです。

アメリカに住む一人の女性が
最近になって自分の家で発見した一通の古い遺言書。
その中には、あらゆる形で戦争に巻き込まれ、
人生を変えられた大勢の人たちがいました。

『戦火の馬』や『世界で一番の贈りもの』のマイケル・モーパーゴが
「スコットランド最後のオオカミ、この石の近くで射殺さる」
という石に刻まれた文字から着想した物語です。

ロンドン動物園のオオカミの絵にまつわるお話として書かれたもので、
ある家系の祖先探しから始まりながら
戦争で傷つけられた人びとと動物の物語でもあります。

ロビー少年の生きる力と
良きものがどれかを判断するまっすぐな心に
感動します。

ねこは心の中でこんなにしゃべってる 『ちびねこグルのぼうけん』

農家の納屋でお母さんねこときょうだいたちとくらしていた ちびねこ。
名前はグル。
のどを「グルルル、グルルル、グルルル」って鳴らす音がとっても大きいから。

ある日、町のドラッグストアの家にもらわれていきました。
知っている人も話す相手もぜんぜんいないところで
新しいくらしが始まります。

さっそくグルは散歩にでかけたのはいいけど、
空き缶に前足をはさまれ、ぬけなくなって、
いたくて原っぱから帰れなくなりました。
夜になって、犬が近づいてきます・・・
けがをしたグルはどうなるんでしょう?

新しい家に慣れてきたと思ったら、
ある日、いらいらしたお店のおとくいさんに
店の前からおしのけられたり悪口を言われたりしたので
おこってその人をひっかいてしまったのです。
グルがいるならもう店に来ない、と怒ったおとくいさんに言われ
おじさんとおばさんは困っています。
グル、納屋に返されるピンチ。

ドラッグストアのおじさんとおばさんは、
はじめグルの話すことばをちっともわかってくれなかったけど、
グルは、一人ずつ、ねこのことばがわかる人に出会っていきます。
となりの家のピーター、散歩で出会ったスミスさん・・・

それに、アイスクリーム屋のおじさんも、どうやらグルの友だちになれそう。
なぜなら、紙コップにひとさじのアイスクリームを入れて
グルになめさせてくれたからです。
グルはおじさんの足のあいだを
出たり、はいったり、出たり、はいったりして
親愛の情を思いっきり伝えます。
アイスクリーム屋さんの車がまわってくる時間になると
だれにも呼ばれなくても、ちゃあんと道に出て待っているグル。
もう近所の一員です。

そんなある日の夜、グルの家、ドラッグストアに、
二人組のどろぼうがしのびこみます。
寝る前、グルを農家の納屋に返さなくてはならないことを
相談していたおじさんとおばさんは、
ドアにかぎをかけるのを忘れていたのです。
いつものように台所の赤いクッションの上で寝ていたグルは
あやしい足音で目をさまします。
大ピンチに遭うグル。
グルはどろぼうを追い払うことができるかな?
でも、ねこの力でどうやって?

「読売新聞の一面を下から読ませる男」と池上彰さんの対談 『書く力 私たちはこうして文章を磨いた』

竹内政明さんは、自称「名文病」患者

読売新聞「編集手帳」を2017年まで16年間書いていたのが
竹内政明さんです。

以前、雑誌「考える人」で、
「手帳から」という
気に入ったことばを紹介した文章を
読んだことがありました。

飛行機の中で隣りの乗客と喧嘩になって
「表へ出ろ!」と叫んだ話で、
その叫んだ発頭人が
竹内さんだと、記憶違いをしていました。
今回読み返してみて
いまは亡き噺家の春風亭梅橋のことだったと判明。
失礼しました。(竹内さんと知り合いなわけじゃないけど)
竹内さんもそうとう愛酒家らしいです、話の様子からすると。

読む力もほしいけど、書く力ももう少しマシにしたい!
と思って読みました・・・
『書く力』

朝日新書。
読売の人と元NKHの人の対談を朝日新聞から出す
っていう変則的な本になっているようです。

名文病患者直伝わざが山盛り

覚えておきたい、と思うところに付箋をつけながら読んでいくと
いーーっぱい付箋がつくという種類の本です。
とりあえず、ビッグな点だけをここに記録することに。

ピッタリな部品とそれをつなぐブリッジ

池上さんがプロの書き手にタネ明かしさせようと
実際のコラムを題材にいろいろ聞き出しているので
たいへん勉強になります。
編集手帳を書く人は日ごろから
いい表現はないかと
収集の手を緩めない生活をしていることがわかります。

たくさんの部品を集めて集めて
書くテーマに合わせてピッタリな部品をそこから取り出して使う、
部品どうしをつなぐブリッジを上手にかっこよくかける、
という作業がなされているんですねー。
そして、最後に高度な技術を用いておこなうのが
「最後のひとコマの緩み」とか。
一般人としては、納得はできますが実践はむずかしそう・・
でも、そういうコツについて読むのはとても有意義な気がします。

ことわざや俳句

収集品の中にはことわざや俳句も多いようで
我が久保田万太郎のもありました。
「走馬燈いのちを賭けてまはりけり」
いのちを賭けてまわっていた「走馬燈」が
「無残に踏みつぶされた」ときに使われています。

久保田万太郎の俳句は
先に挙げた「手帳から」の中でも
「半夜の歓を尽くす」のところで
「煮凝やいつまで残る酒の悔」が引かれていました。

簡潔、省略を効かせる

戸板康二さんの省略の利いた文章が挙げられています、名人芸として。
そのほか、これ以上ないくらいに短かくして
展開を自然に書いて、簡潔だからこそ良い文章になっている例が
挙げられています。

 

それから、落語の速記本をかなり読んだ、っていうのは
分野違いで意外な感じですが、
話の流れからするとむしろ自然でした。
お芝居・演芸好きの人間からすると、「やった!」なんて思います。

褒めたり、反対に批判したりするとき

褒めたり、反対に批判したりするときは
ストレートにそれと表現するんじゃなく、
「火種をそっと差し出す」と、読み手が「ガソリンを撒いてくれる」
という技も披露されています。
高度。

いろいろ用語集を渉猟

類語辞典、歌舞伎や相撲の用語集、倉嶋厚『雨のことば辞典』とかを
めくって、
気の利いた言葉を探すのは一般の人にも勧められる
ということです。
真似しようと思います。
一つの言葉を覚えたら、それで満足せずに、
多くの表現を知るように努めるのが文章の腕を上げる方法。

たくさんの本を読んで、「自分の中でしっくりくる表現」を
見出していくのは、やっぱりおすすめだとお二人とも認めていました。

いい文章を書き写す

いい文章を書き写すことを
竹内さんみたいな忙しい人が続けているそうです。
そうか・・・
読めばいいじゃん、って凡人は思っちゃう。
でも、言葉のリズムとか、漢字かひらがなか、とか、
句読点つけてるか、とか
読んだだけじゃ見逃していることって多いな、とは思う。
真似したい。
竹内さんは『井上靖全詩集』の『北国』という詩集だそうです。

漢詩や文語文に親しむのもおすすめで
お勉強になっちゃうと続かないから
楽しむのが続けるこつだそうです。
続けないと意味がないんで。

地道な努力、読み手を考えた伝わる表現

もう下品な家具は置けない状態にする

いい言葉を仕入れて使うと、その言葉のまわりの言葉も
良くなっていく。
上品なテーブルクロスがかかった部屋には
もう下品な家具は置けない!
ってこと。
納得。

自慢話はしない

自慢話はしない。
こう書くと当然のことのようなんだけど、
世の中に自慢臭のする文章や言動のいかに多いことか。
「今となってはいい思い出」となっている失敗談が
読み手にもっとも訴えるとも。

以前に自慢臭のしない本として『三文役者あなあきい伝』を
紹介したことがありました>>「敢えて「愛」なんて言葉は使いたくないほどウツクシイ」
自慢臭のしない文章は心地いいです。
これ書いた人と「半夜の歓を尽く」したい、としみじみ感じます・・・

あとがきにもいい表現が数珠つなぎ

「対談を終えて」という竹内さんのあとがきがまた、いいです。
「口の格闘技」である対談をしているうちに
「ポケットの裏地の袋まで引っ張り出されてしまった。」と。

このように、
いやにかぎかっこが多いのは、
竹内さんが使う言葉がどれもこれもすてきなので
他の言葉で表現する戦意を喪失させられている証拠です。

これじゃいけないんですね。
この本を読んだからには、
さらに別の言葉で
もっと気の利いた表現はないかと
探さなければいけないんです、ほんとうは。

これだけしゃべっておいて、自分を「訥弁」と言い、
今宵じぶんの「愚鈍なる舌」を
「酒責め」にすることを宣言して終わっています。

最初から最後まで、付箋だらけになった新書を見て
文章をすこしはマシに書けるようになるため、
まずは、好きな作家の文章をノートに写そうかと。
奇をてらわず一歩一歩。

モルモット史上特筆すべき事件を話したモルモット~なぜモルモットにはしっぽがないか? 『モルモット・オルガの物語』

まちがいなくとくべつなモルモットがいました。
オルガっていう名前です。

ペットショップで暮らしていたけど、
ある日突然にそこを出て新しい家に行くことになります。
オルガっていう名前があるのに
違う名前をつけられそうになったから
そんなのいや! と思い
なんとかして「あたしの名前はオルガ!」
ってわからせようと考えて、実行しました。
モルモットだってそれくらいのことできるんだから・・
そして「オルガ・ダ・ポルガ」っていう名前をつけてもらうことに成功します。

・・・そんな感じで始まる、モルモット・オルガの物語です。

モルモットにしっぽがない、って
飼ったことがない人は知らないかも。
ネコのノエルに
「しっぽがない」ってばかにされそうになったとき、
モルモットになんでしっぽがないか、教えてあげましょうか?
っていうわけで、
モルモット史上特筆すべき
一大事件にかかわる壮大な物語を語ることになるのです。
「むかしむかし・・・」

このうえなくすてきだったしっぽを
モルモットがどうしてなくしてしまったのかが
解き明かされます・・・
そこには、ある美しいお姫さまと王子さまと、
切り立ったがけの上に建っていて
だれも登っていくことのできなかったお城が
出てきます。

オルガはカレンちゃんという女の子の家で
モルモットが住みやすいように工夫された小屋で生活することになりますが
もくじを見るとわかるように
快適なことや鼻高々なこともたくさんあるかわりに、
恐ろしいこと、悔しいこと、悩むこと、困ったことも
たくさんたくさん起こります。
モルモットの病院にかつぎこまれることさえあります。

オルガはあるとき
行方不明になったあと自分の小屋にたどりついて
カレンちゃんにぎゅっとだきしめてもらい
「家に帰るのはしみじみいいものだ」と思ううちに
「たくさん食べて、少しだけ考える」という
モルモット一流の哲学を編み出します。

しかも、モルモットコンテストに出場して
名誉なような名誉じゃないような微妙な名前の賞をもらいます。
なんという賞だと思いますか?

次々に起こる事件に、オルガがいっしょうけんめいに立ち向かうので
そのなりゆきが知りたくて
またあるときは、自分もオルガといっしょに
外の世界をびしょぬれで必死に走り回っている気がして
ずんずん読んでいるうちに
物語は終わりに近づいていきます。

作者のマイケル・ボンドさんが
モルモットをだいている写真が裏表紙に載っています。
オルガや友だちの動物たち、
飼い主さんたち、町の人たちはきっと
みんなマイケルさんの町に住んでいた動物や人です。

きっと、マイケルさんの町で起こった出来事は
このお話の中の出来事とそっくりなのにちがいありません。

「くまのパディントン」の作者であるマイケルさんの心を通すと
動物たち人間たちの毎日がこんなにも楽しそうなものに
なるんだな、と感じます。
「パディントンに町で出会っても驚かないでしょう」っていう言葉を
読みました。
その感性が動物たちに強すぎないキャラクターを与え
人間と動物が一緒に暮らすことが
楽しい自然なことに感じられるんじゃないでしょうか。

マイケルさんは戦争中は空軍陸軍に入隊していたとのこと。
昨年亡くなったときはSNS上にも追悼のコメントがあふれたそうです。

語って聞かせると より想像がふくらむものがたり 『きつねものがたり』

ヨセフ・ラダが、子どもたちに語って聞かせたことから生まれたお話だけあって、
これはきっと、
ひとつひとつの話を耳から聞かせたら、よりおもしろく、
子どもたちの心の中で
大きくふくらんでいくタイプのものがたりだと思います。

絵から始まった彼の経歴からしても、
生まれ育ったフルシッツェ村で触れ合った動物たちが
たくさん活躍するものがたりがたくさんあるのは自然なことでしょう。
その筆頭がこの『きつねものがたり』というわけです。

きつねものがたりの舞台となる家は
ある「森ばん」の家「ぶなの木ごや」です。
「森番」っていうのも独特な存在ですね。
日本には、いたんでしょうか、似た存在が?
山の中のことをよく知っているということでは炭焼きの人
とかはいましたが・・

森ばんのボビヌシカさんが、
二人の子どもたちのおみやげとして獲ってきたのが
一匹の子ぎつね。

女の子のルージェンカは本が大すきで、
いつもきつねに本を読んでやっていました。
きつねは、じっと聞いているうちに、
ひとつひとつのことばをききわけるようになり、
しまいには、もう、のこらずわかるようになったのでした。
そうして、じぶんもはやく、お話のなかのきつねのように
かしこくなるために、いっしょうけんめい勉強しようと
決心します!

けど、いっしょに飼われている二匹の犬たちにいじめられ、
もう人間と住むのはやめよう、と決めて、
一人前のきつねになるため、森へ逃げ出すのです。

ここから、作者と読者は、このきつねに敬意をはらって
彼のことを「きつねくん」と呼ぶことにします。

きつねくんは、いくつもの楽しくも冒険に満ちた体験を経て
ものがたりのおしまいのほうでは
ある仕事につくことに成功します。
それも領主さまに認められた名誉ある仕事に。

ことばだって、ルージェンカにおそわって以来、
活用に活用を重ねたせいで、
「きつねなまり」なんて、ぜんぜんない人間語をしゃべります!
そうして礼儀正しく賢いきつねになります。
立派な服を着て、羽根つき帽子だってかぶっています。
———————————————-

たくさんのかわいい挿絵があるから、
小学校初級から読んでもいいけど、
字も小さめだし、一人でいっぺんに読み通すのはけっこうむずかしいかも。
一つずつ切って読むか、耳から聞くか
のほうが、内容に見合った年齢には向いているか?
という感じです。

チェコ人ならだれもが知っている『兵士シュベイクの冒険』の
挿絵が、このヨセフ・ラダの手によるものなのでした。
つまり、チェコのほとんどの人が、
彼の絵に小さいころから親しみ見慣れて
育っているということなのです。

小さな村の貧しい小屋で生まれて、
たった一つの部屋で
生活し、料理をし、眠り、靴を作り、靴を直していた、
という暮らしだったということです。
(イワン・クロウスキーによるあとがきより)
貧しい靴屋、って、ヨーロッパの昔話に多く登場しますね・・・
きっと、たくさんの貧しい靴屋さんがあちこちにいたんでしょう。

おとなも想像をふくらませながら語って聞かせる
素朴なものがたりであり、
「きつねなまり」に見られるように
内田莉莎子さんの訳が、とてもやさしいことばの響きをもっていて
心地よいです。

せっかく書いたら多くの人に読んでもらいたいから・・ 『世界一わかりやすいSEO対策』

企業や店舗のウェブサイト担当者ならもちろんのこと、

わたしたち一般の人が自分のサイトを作るのもごく普通のことになってます。

せっかく作ったウェブサイトやブログだから、

だれにも読まれないとちょっとさびしい・・

だから、SEOというほどおおげさでなくても、

知らない人に見つけてもらえる方法には

どんなのがあるのかな~~?

そんな感覚で読む人にも、

今すぐ実行してみられることが載っている本です。

各章の最初にマンガを織り込みながら

気軽なふんいきで読み進めるのもGOODです。

ウェブの知識はほとんどない、有限会社RSの営業部員の谷口くんが

SEOコンサルタントの千葉勝子にSEO対策・ウェブマーケティングを教わる

という設定になっています。

現状サイトのここがよくない、という点を指摘しつつ

どうやって改善するかが具体的に書いてあります。

「サイトの構造が深すぎる」

「サイトマップの必要性」

「問い合わせや申込みボタンの場所や大きさ・色・形」

とか、すぐに改善できそうなことが挙げられているので役立ちます。

この類の本って、
「いろいろ理念が書いてあって、それはわかるけど
じゃあどうしたらいいの?」
っていうものも少なくないけど
読後に一歩踏み出せるのがうれしいです。

2014年発行ですが、内容古くなっていなくて使えます。

江藤さん、よくぞ訳してくださいました 『チャリング・クロス街84番地』

読み終わったとき、私、
「なんてこった。こんないい本があったのか!」
とつぶやきました。

最初はそれほど思い入れなく読み始めても
ページが進むにつれて
細部にまで興味がわいて
「んーーー」
「はあーーー」
「おおーーーー」
「そうかーー」
「ちょっとその本なに? 読みたい」
などと
心をかき乱される率が高くなっていきますね。

そして、江藤淳さんの翻訳がまったく
奥ゆかしく、上等で、
ゆったりと時間をかけて味わいたくなる
香り高い紅茶のようです。

ごちゃごちゃ言わず
これでこの文章を終わったほうがいいようにも思います。
けれど、もうちょっと紹介させてください。
なにしろ、
「いいなーー、忘れたくないなーー」と特に思った箇所だけでも
こんなにあったんですから・・・

アメリカ・ニューヨーク州に住む女性ヘレーン・ハンフさんと
イギリス・ロンドンの古書店「マークス社」の社員フランク・ドエル氏が
お客と古書店員というにとどまらない
心のこもった、手紙による交流を続けた
その手紙から成る本です。

それだけ聞くと、とくに面白そうでもないですよね。
ところがどっこい、ページの文字全体が力を合わせて
本好きな読者をどんどん引き込んでいきます。

「貧乏作家」ヘレーンは、
「苗字から察するに、あなたはウェールズのご出身?」
など、相手のことを
思いついたとき折々に少しずつ尋ねています。
そのゆっくりさが、
時間の流れがまだゆっくりだった時代へ思いをはせさせてくれます。

ヘレーンは、自分自身お金に余裕があるわけではない中、
まだ食料規制があったイギリスへ
缶詰や乾燥卵など貴重だった食べ物を送ってあげ、
受け取った本屋の人びとは、
感謝してみんなで分け合っていただき、
あるいは、何か特別なときのためにだいじにとっておいたりします。

この手紙の数々を読むのが
どうしておもしろいんだろう?
と、途中で自問自答しました。

少し昔の本好きの人たち、しかもアメリカとイギリスの人たちが
どういう交流をしていたのか見届けたいから?
出てくる作品そのものは
わたしなど英文学をよく知らない一般日本人だから
知らないもののほうが多いんだけれど
それでもなお納得できる、古本を買う人の心理ってものもあったりするので
その辺り楽しいですから。

例えば、「この本読んでみたい」と思う動機として
自分が好きな作家がよく引用している書物だから
「きっと気に入るにきまっています」とか。

それから、古本だけどきれいなので
だれも読んでいないんじゃないかと思うけど、
実はちゃんと読んだ人がいる。
それは、この本の中でいちばん楽しい箇所が何箇所か
パラッと自然に開くから、と。
まるで前の所有者の霊が導いてくれているようだ、と。

とにかくそれぞれの手紙に、ヘレーンとフランクの
飾らない心とか
本好きどうしのまごころとか
市井の人としての態度とかが
にじみ出ているのが
江藤淳さんの翻訳によって、ほんとうによく伝わってくるのです!
これは、ある程度文体が古風である必要がある! と
確信します。

「久しぶりのお便りなつかしく拝見いたしました。仰せのごとく、当方相変わらず当地にとどまりおりまして、いたずらに馬齢を重ね、ますます多忙をきわめておりますが、相変わらず貧乏暇なしです。」
とか。

紙の本で読みたい本っていうのを挙げるとき、
こういう本はその良い例になるんじゃないかなー。