歴史ミステリー+ハートウォーミングストーリー=『冬の龍』

今の東京から昔の東京の痕跡を辿って
謎を解いていく歴史ミステリーでもあり、
同時に
早稲田にある下宿屋の住人たちが
それぞれの悩みと向き合う
ハートウォーミングストーリーでもある。

だめだって思ってると、ほんとにだめになっていっちゃう
って、気付かせてくれる。
12歳から70歳代の人びとが
知らず知らず、自然と互いを助けている。

冬至から正月3日までの短い期間の話だったってことに読後に気付く。

早稲田の穴八幡あたりに建つ下宿屋「九月館」。
ある日、管理人のすずさん(70代)の知り合いという1人の男性が訪ねてくる。
彼はまだ若いのに、なぜかすずさんが幼いときのことを覚えている。
九月館が建ったころそこに生えていたケヤキの木のことを
なぜか知りたがっている。
その根元に埋まっていた不思議な石を探しているかららしい。

古い地図や古文書を手がかりに
彼が言う不思議な石探しに着手する九月館の住人たち。

元は早稲田にあった寺が別の場所に移っていたり
手がかりとなる古い本を探しているもう一人の人とぶつかったり

石に辿り着くことはできるのか?
ケヤキの木のことを知りたがって訪ねてきた男の正体は?

ハートウォーミングなストーリーであることは確かなのに
歴史ミステリーとして確固たる謎解きを迫る展開です。
歴史好き、友情もの好き、ミステリー好き・・・
いろんなジャンル、いろんな年代をカバーするストーリーです。

福音館創作童話シリーズ。
現実でもありえて想像でもありえる「童話」で
謎解きの側面・夢の側面とも、大人にも読み応えあります。

この大きな木を生やせる心とは 『おおきな きがほしい』

目を閉じます。
すると、4人がかりでないとかかえられないような
太くて大きな木が現れます。
はしごをかけて登って登って行きます。

途中には洞穴があって、
その中にもはしごがずんずん続いています。

枝が3つに分かれているところに
小さな部屋がしつらえてあります。
すみっこには台所があって、水もでるしコンロもあります。
テーブルが一つといすが一つ。

カケスやヤマガラやリスたちが訪ねて来るし
窓から遠くの山や雲や畑が丸見え。

春も夏も秋も冬も
なんてすてきな場所でしょう。
部屋の細部を描いた村上勉の絵が
想像を掻き立てること掻き立てること!

主人公のかおるでなくたって
だれだってこんな木がほしい。
そして木の上にあるこんな部屋がほしい。

この木を生やせる、そういう心を持って毎日を送りたい。
そういう想像は、
いやなこと、つらいことだらけのこの世の中を生きる
大人にこそ必要だな・・・。

スケッチブックに大きな木の絵と
枝に作る自分の部屋を描いてみよう。

忘れていた遠い日のことを『電車にのって』

5つのおはなしの中のひとつ、「風」。

この絵の女の子が乗るブランコの縄の上のほう、
木の枝のところにいる人かげ。
幽霊じゃない。

こういう人かげが、だれにもあるのでしょう。
ずっとあとになって気がつく人もいれば
永遠に気づかないまま終わる人もいる。

人の一生は、始めがあって終わりがある。
そのあいだに、いろんないろんなことがある。
ただそれだけのことなんだ、って
気持ちがふわっと楽になる。

こういう「名作童話集」というような本って
どういうときに手に取るかなあ?
「ふとしたとき」としか言いようがないかなあ?
目的のない読書をしようと
フラッと本屋や図書館に寄ったとき?

なにげない瞬間に、
フッと、隣りにいる何か親しい存在を感じて
生きるのが心楽しくなる、
そんな気分を連れてくるおはなしが5つ、ならんでいる本です。

まじめに暮らしていたふつうの人たちが 『まっ黒なおべんとう』

大きな字で読みやすい、小学校中学年から読めるおはなしです。

広島の原爆資料館に展示されている、
中身がまっ黒になったおべんとう箱。

その朝、おべんとう箱に、
大豆と麦と米のまぜごはんをつめてもらって
自転車で出かけていったのは、
しげるくんという、
その年広島の中学校に合格して元気に通っていた少年でした。

おかあさんのしげこさんは
原爆で死んだしげるくんのことは
「思い出すのがつらいけえ」
ずっと話さずにいたといいます。

けれども、
「それだけじゃいけませんよのう。
原爆が一つでもあるかぎり、平和じゃないですけえのう
と思い直して
古い日記や写真や手紙をだしながら
作者に話してくれた話を書いたものです。

たくさんの死体から、わが子の姿をさぐりあてた
おかあさんのしげこさんの気持ちを思ったとき、
この話を本にしようと決心した、と
あとがきにあります。

1944年ごろの広島のふつうの人たちの毎日のくらしも
生き生きと描かれているので
「こんなささやかなくらしを、まじめに生きる人の命を、奪うとは。」
という感情をかきたてられます。

8月6日の夕方、くすのきの下で 『かあさんのうた』

8月6日の夕方、作者はもんぺをはいた女学生として
広島近くの村にいました。
そして、町から狂人のように泣き叫びながら逃げてきた
一人の母さんを見ました。
燃える町の中で、ぼうやとはぐれてしまったのです。

作者の大野允子さんが、
今も道のほとりに立っているの見るたび、
「この木は、なんもかんも、知ってるんだな」と
ため息を吐くという、樹齢何百年もの巨大なくすのき。
その下で、あの日起こったであろう
数多くのできごとの中のひとつのおはなしです。

大野さんの作品の中で
いちばん短いのに、いちばん多くの人に読まれてきた気がするという
『かあさんのうた』

「うた」とは、
くすのきによりかかった女学生が
まいごのぼうやをだいてうたった子守唄でした。

くすのきは、
「ぼうや、よかったな。
かあさんに、だかれて・・・いいな。」
と言いながら、からだをふるわせていました。
「かわいそうな、ちいさな 親子・・・。」

朝が来て、くすのきは、
自分によりかかっているちいさな親子が
まるで生きているように
金色の日の光にてらされているのを見ました。

くすのきは、目をつむれば
あのうたが聞こえてくるような気がして
今もくろぐろとした大きな影を夜空に投げて
そこに立っています。

生きてるかぎり学ぶ、人それぞれの学び方で 『こんにちはアグネス先生』

舞台はアラスカの小さな村。
学校は一つだけで先生は一人きり。

そこに来たアグネス先生によって
子どもたちと村の人たちが
「学ぶって楽しい」
と感じるようになるまでが描かれます。

アグネス先生は、昔話をつぎつぎに読んでくれる。
大昔の人たちが、こんなことを思いつくなんてすごいなあ、と子どもたちは思う。
先生に本を読んでもらうと、物語の中にいるような気持ちになって
読むのをやめると夢からさめたようにショックだ、と感じる。

耳が聞こえないからと当然のように学校に行かないままだった
ボッコが「学校に来なさい」と言ってもらった。
そうしてだんだんと
村の人が手話を勉強するようになった。
ほかの勉強がぜんぜん苦手な子が、
なぜか手話を覚えるのがとても早いっていうこともあった。

学校は子どものためだけにあるのではない。
人は生涯、勉強を続けなければならない、とアグネス先生は言う。

サケがたくさんとれたら、3桁の足し算ができると合計何匹とれたのかわかる。
学校でアグネス先生から習ったことが、生活のあちこちで関係ある。
学校なんか、先生なんか、と言っていた村の大人たちも
だんだんと変わってきた。

それまでは目もくれなかったまわりの世界や
遠い世界のことまでも見えてくる気がする。

アグネス先生は違う学校に移って行ったけど、
たぶん夢を持ち続けてそれに向かっていけば、
いつかは夢がほんとうになるって思うところまで
子どもたちは変わった。

本によって、学ぶ楽しさによって、
人は心の中に希望をともして生きて行けると再認識し、
口の両端があがる読後感です。

鎌倉で打ち首になったある盗人の記録から 『馬ぬすびと』

源頼朝が鎌倉に幕府をひらいてから7年後にあたるある夏の日、
九郎次という馬ぬすびとが由比ガ浜で打ち首になった
という記録が、
寿福寺の文庫に残っているという。

その記録はごく短いものであろう。
あるいは、打ち首になったことだけが書かれたものかもしれない。

けれども、九郎次という男が存在したことは
確かだ。
九郎次が、日本のどこかで生まれて育ち、
馬を盗むだけの動機を持って実行に移したことも
確かだ。

この『馬ぬすびと』は、
きっと九郎次という男が
こんな境遇だったにちがいない
と読む者を納得させるストーリーだ。

馬どころで名高い陸奥国の水呑み百姓。
9人きょうだいの末っ子で、上の8人はことごとく死んだ。
死にそこなった九郎次がどんなふうに育ったかは
まあ、考えるまでもないことだ。

そんな暮らしをして、
当然ふるさとが恋しいなどと思ったこともないが、
南部富士といわれる岩手山のすがた、
そして、野馬のすがただけは
思い出すと胸の血がわいてくるほど恋しい。

九郎次は、箱根丸という馬ぬすびとの仲間になる。
箱根丸とて盗人になるような男ではない。
辛い苦しい目にあわされつづけたあげくにそうなったのだ。

日本中、おなじような者だらけ。
その上におっかぶさっているのが、天下をとっているやつとその仲間だ、
と九郎次は思う。

幼いころから夢に見るほどすきな馬。
夢のほかにはよろこびのない世の中。

九郎次は、夢のために命を捨てても惜しくはないと思うようになる。
自分がふるさとでこのうえもなく愛した馬が
いくさで人殺しに駆り立てられている。

「馬を盗むのは、馬をときはなしてやるためだ。
夢をまことにするところまで
追って追っておいまくるのだ。」

「馬ぬすびとがぬすびとか、
頼朝大将のほうがぬすびとか、
いつかわかるだろう。」

その論理にいつの間にか読者は共感しているだろう。
歴史の中の無名の人たちを
その息づかいや表情や声とともによみがえらせてくれる物語だ。

作者 平塚武二は「赤い鳥」同人。
絵は太田大八で、
子どもの九郎次や、馬との日常や、いくさの場面を
その空気とともにわたしたちの目の前に見せてくれています。

小さな命、クワガタを生かしている自分 『クワガタクワジ物語』

2年生の夏至の日に
家の近くの八幡さまの森にあるクヌギの木でつかまえた
3びきのコクワガタ。
太郎くんは、それまでがんばってもがんばっても
つかまえられなかったクワガタを一度に3匹もつかまえて、
飼うことになりました。

名前だってつけました。
お兄さんらしく落ち着いているように見えるのがクワイチ、
ちょっと小さめなのがクワゾウ、
いちばんあばれんぼうなのがクワジ。
きっと3兄弟に思えてならないのでした。

つかまえたときのことや
3匹が育ったであろう幼虫時代やさなぎ時代のことも
それから何度となくお母さんといっしょにお話にして
話したり話してもらったりしました。

クワガタの家として用意されたのは大きな樽。
「第一クワガタマンション」と名付けられて
3匹で飼っているうちに、ほかのクワガタも加わったりして
にぎわいます。
学校にもクワガタを連れて行ったんですよ。
3兄弟のクワガタ、は家の中を歩き回ったりしながら
樽の家で元気に生きていました。

めんどうをみて冬越しもしました。
自分以外にたすけるもののいない小さな生きものを
たいせつに育てる様子がとても尊いです。

家出したクワゾウが帰ってきたときのことは、
なにがなんでも、たくさんの人に読んでほしい場面です。
124ページから126ページにかけてです。
涙なくしては読めません・・・

本能に支配された生きものたちの行動を
「どうしてか」
と考えるのは人間の勝手のようではありますが
やっぱりそれも含めて
自然界の流れなんじゃないかと思えます。
また、そういうふうに考えられる温かい心を持っていたいです。

物語最後の一文は、

「あーー、生きものって、人間も含めて
みんなみんな、こうだよね。」

と思える一文です。

2年生だった太郎くんは物語のおしまいには4年生になっていますから、
3年生4年生そして5年生くらいの人たちにとくに勧めたいな。
それから、大人。

出会った人みんなが声をかけいたわって 『こんぴら狗』

戌年なので、年頭に「おかげ犬」が出てくる歌を
NHK Eテレ 「0655」 でやっていました。
ポチが通ります
主人の代わりにお伊勢参りに行く「おかげ犬」は
浮世絵にも描きこまれています。

いったいどうやって??
と思うとき、
「おかげ犬だ」と知って、道行く人が導いてやったり
えさをやったりしていただろうことを想像します。

江戸時代の人たち、いい人たちです・・・

「こんぴら狗」っていうのもいたんですねえ~
江戸からだと、金毘羅さまは伊勢よりずっと遠いじゃないですか!

 

四国の金毘羅さままで歩いて行くのは
江戸の線香問屋、郁香堂の飼い犬ムツキです。
生まれたばかりで死にそうになっていた子犬のムツキを
助けてくれたのが郁香堂の娘・弥生。

その弥生が病気で伏せるようになったのを
なんとか治るように願をかけるため
知り合いのご隠居といっしょに金毘羅さまに参ることになるのです。

みちみちどこでも、こんぴら狗と知ると歓迎してくれて
かわいがり励ましてくれるというふうでした。

けれども、早くも第5章の見出しは
「別れ」とある。
いったいだれがだれと別れるの~?
どんな形で??
このあたりから、もう読むのがやめられなくなりますね。

出会う人で、少なからぬ縁を結ぶ人びとは
それぞれが楽しいことばかりじゃない過去を持っていて。

船頭の少年すら、どうすることもできない理由で
生まれた土地を追われた。
3人連れの女の1人はまだ若い娘で、
芸者に売られたがそれを恨むこともできない身の上。
門付けの若い瞽女は
「ほんまにぬくいな。あたしは犬が好きや。」
と見えない目で空を見上げて
ムツキをなでては声に出さずに笑っている。

茶店でだれかが「こんぴら狗や。」と言うと
みんなが振り返ってそばへやってきて
首にかけた木の札をさわったり頭をなでたりする。
そういう、場の空気があたたかく伝わってくるのが心地いい。

長旅を耐えている犬のけなげさに心をうたれるのは
登場人物も読者も同じ気持ちのようだ。

金毘羅さまに着いていよいよお参りするときに
一緒だった娘の言葉に胸を打たれる。
自分も決して幸多い日々ではないにもかかわらず
犬のため、病気だという見知らぬその飼い主のために
涙を流して祈っている姿と言葉に。

ムツキがお参りを果たしたあと、どんな帰途をたどるのか
見届けるまでは読むのをやめられないでしょう。

この物語を小学校高学年の課題図書にしたのは、
見知らぬ人どうしが無言のうちに
善意や信頼でつながりあい助け合うことは
可能なんだよ~~!
っていう意味なんじゃないかと思います。

犬好きの人、歴史好きの人には
とくにおすすめだよ~!
って勧めてみよう。

「ぼくもがんばるよ」と心の中で話しかけるようになるまで 『夏の庭』

「夏の庭」とは、
ある一人ぐらしのおじいさんの家の庭。
コスモスがいっぱい咲いた庭。

コスモスのたねが、ぱーっとたくさんまかれたのには
たくさんの事情が折り重なっていたし、
コスモスが咲くかたわらで起こったことも
人の一生のうちで何回もあることじゃない。

6年生男子3人。
古い小さな木造の家に住むおじいさんと知り合う。
その動機は、なんとなくやましい・・・
けど、おじいさんとつきあって少しずつ会話をするうちに
6年生なりにわかっていく。
人生では
「Aさんの家にはりんごがひとつありました。
Bさんの家にはりんごがふたつありました。
両方合わせて3つです、ってわけにはいかない。」
ってことが。

死ぬって、もうその体でぼくと話したり、
いっしょにものを食べたりすることは絶対ないってことだと感じる。

老人には(老人とまでいかなくても)、たくさんの歴史があるのだ。
そうしてやがて、歴史とともにあっちの世へと行くのだ。

残されたぼくたちは、
おじいさんが一人でぶどうを洗っている後ろ姿を想像する。
思い出すのは、そういう日常のなにげない姿だ。
そこにこそ、その人のぬくもりがある。

彼らは、
「ぼくもがんばるよ。」
と心の中でおじいさんに話しかける。