犬どろぼうを計画したけど

「犬どろぼう」をしなければならないのは
どんなときか?
確かに悪いことだけど
「邪悪」ではない動機として
どんなことが考えられるでしょうか・・

そんなのあるわけない!
という声も聞こえてきそうですけど
これが小学校中学年向けの本だということを
考慮に入れるとどうでしょうか?

犬どろぼうを計画する少女としては
正真正銘の真剣勝負なんですが
大人の感覚では、
ほほえましい面もある成り行きです。

家をなくして車で暮らすはめになった少女ジョージナが主人公。
アメリカが舞台。

職を失った中年男性が車で暮らさなければならないという
映画を最近見ました・・『ダブリンの時計職人』。
家を失った人が車で生活する、っていう境遇が
あるようです。
日本ではどうなんでしょうか。

ジョージナが盗んだ犬の飼い主の女性カーメラには
家族とあまり仲良くない事情があるのが垣間見えます。

なんとなく現れてジョージナを助けてくれるおじさんムーキーは
昔けがで手の指を2本失ったらしいし
家がなくて自転車で移動しながら暮らしているらしい。

この物語を通してわたしたち読者に伝わってくることは
少女が犬どろぼうをしたことが悪かったと反省するとか
謝礼金を目当てにするなんてたちが悪いとか
そういう教訓とかではないでしょう。

みんながそれぞれたいへんな境遇を背負って生きていることが
知らず知らずに少女の心に浸透していくんですね。

子どもなりに
それまで接したことのなかった種類の人たちと出会うことによって
いろんな人がいるんだと感じる。

それぞれの人が、違う形の思いやりを持っていることを感じる、
そういう物語なんじゃないかと思います。

おとなになっちゃうと麻痺しちゃう柔らかい吸収力で
相手のピュアな部分を、ジョージナ自身が引き出していく
っていうこともあると思います。

おとなになってからも、相手のいいところを出してもらえる
付き合い方をしたいな、と思わされます。

 

鎌倉の片隅にひっそりと佇むビブリア古書堂

この紹介文の書き出し
「鎌倉の片隅にひっそりと佇むビブリア古書堂・・」
からすると、
ターゲットは本好きの大人・・
っていうイメージですが、
もとはラノベ方面の作家さんの作品だそうです。

でも、
出てくる人の描き方や
事件のなりゆきや
風景や
扱う古書の種類なんかも
どんどん読む人の興味を引いていくんです。

古本にひそむ秘密・・
内容の面もあるし、
本そのものにまつわる因縁もある。

時を経た本には、
ただ印刷された紙を綴じた物、というだけではおさまらない
不思議な物語が宿るようになっていくんです。

本好き・古本好きな人は往々にしてその部分も含めて
本が好きなんだと思います。
「書物狂」
「偏愛」
みたいなちょっとおどろおどろしい色彩を含めて・・

で、このお話は、
若い人びとの軽い日常のお話かと思いきや、
古本好きな、若いとは言い難い人びとをも
じゅうにぶんに楽しませてくれます。

わたしはまだ2巻目を読んでいるところなので
じゅうぶん語る資格はないかもしれませんが、
続けて読みたーい・・と
思っておりますです。

 

『幸せの新しいものさし』

さすがな題名ですねー。
ふつうのわたしたちは、ものさしを新しくできなくて
思い込みからの発想ばかりして
憂鬱な気分になったりします。

この本の中でいちばん自分で生かしたいと感じた章が
「読書のものさし」。
本に関係あるアルバイトをしているので
こういう発想で仕事するといいのかー
と思いました。
たしかに、「子どもたちを本好きに」は
おとなが考えそうなことですが、
そううまくいくわけないのが現実でして。
発想のベクトルを変えてアプローチしなけりゃ
効果ないんですよね~。
食指をのばしそうな本を置いとくと
なんにも言わなくても争って持っていくからな~。

この本のこの章では
人と本が新しく出会う場所づくりについて
提案がいろいろされています。

1、風の又三郎を感じる旅
・・・空港の旅グッズ売り場に行き先別のいろんな本が置  いてある
2、予備校生相手の場合
・・・なんで東大に行きたいか?
東大生たちが好んで見ているフリーペーパーや
卒業生のその後や著書
教授が書いた本
などを置く
3、マッチングするのは「人と商品」ではなく「人と体験」である
・・・ということで、
もはや本を商品として売るという考え方でなく、
読書することで生まれる憧れや意欲や愉しさや思い出など
とともに本を売る、という発想です。

こんなに楽しくて思考経路をも変える
読書という体験を知る人が増えると
犯罪も減るはず??
読書好きはそう思うんであります。

 

本は内容のほかにいろんな不思議を連れてくる

本って、内容を読むことはもとより当然として、
一緒についてくるいろんな「作用」があります。
古本好きの人ならなおさら、その謎やミステリーも知っているはず。
この紀田順一郎編集解説『書物愛』は、
本好きならニンマリしつつ身に覚えのあることを
楽しみながらあっという間に読了してしまうような本です。

本というものを愛する(愛しすぎる)がゆえに起こる
恐ろしくもスリリングな出来事、ときには事件が
次々に紹介されているからです。

横田順彌「古書狩り」では—–

人が興味なさそうなある本を、
一途に集めている老人の存在に気づいた主人公が、
自分の蔵書にその本が一冊あることを老人に告白、
老人は、どうしても見たいと言う。
なぜ老人がその本を集めているかという謎は
とけるのだろうか。

夢野久作「悪魔祈祷書」
島木健作「煙」
野呂邦暢「本盗人」
出久根達郎「楽しい厄日」

まだある、まだある・・・

本って、本好きな人を狂わせる魔力をもっているんです。

探求の渦中では脇目もふらずに夢中になって
終わったあとでは、

自分ながらの苦笑いや
次なる興味への邁進や
今回の経験で得た新知識への充実感や
なにやらで、
たいていの場合、満足しているわけです。

そして、この『書物愛 日本篇
などを読んだときには
ああ、こんな「症状」の人もいるんだな・・
と思って、うれしいやらくやしいやら
複雑な気持ちになるわけです。

「古本病」っていう言葉、いいですね。
古本病のかかり方 (ちくま文庫)』ってグッドネーミングで
それだけで買いたくなりますー。

 

その時代に生まれたばっかりに

かきつばたが狂い咲きしていた。

広島の町が爆撃されて間もないころの福山市で。

疎開中の「わたし」が知人のうちに泊まったとき、

離れの二階から紫色の花が見えた。

それは、8月15日に終戦命令が出て、

その翌日のことだという。

 

それより数日前、

そこかしこの店で軒下に古ぼけた家財道具を持ち出して

大安売りの札を出しているなか、

「わたし」は、この町も見納めだと思って歩いている。

強制疎開の命令が出たのだ。

 

途中で出会う旧知の人びとも

みんなあきらめ顔でぐったりした様子。

広島で爆撃にあい血だらけになって帰って来た人が

惨憺たる苦しみで亡くなった・・と話す人がいる。

そういう人たちの症状に

まだ病名も名付けられていなかったので

「義勇兵の病気」「不思議な苦しみをする病気」「治療法のない病気」

と言っていた。

そういう日々のなか終戦となり、

「わたし」は疎開仲間の家に泊まっていた。

夜明けごろ目覚めて窓から下の池を見たときに

狂い咲きしたかきつばたの横に

何か浮いているのを見つけたのだ。

人が水に沈んで浮き上がるのは

1週目か2週目にきまっていると

当時人びとは言っていたという。

7日前といえば

ちょうど福山の町が空襲を受けた翌日にあたるのだ。

空襲であわてて家をとび出して

一目散に走ってこの池のほとりまで逃げて来たのか。

やけどと思われる頬のきず。

詳しいことはわからない。

年は二十歳前後、

手拭地の寝間着に赤い伊達巻をしめていたそうだ。

 

かわいそうだとか、戦争は悲しいとかいう言葉は

ちっとも書いていないのに、

読者の心にグングン迫ってくるものがある。

登場人物の会話が

読者をその場にいるように感じさせるにじゅうぶんなくらい

細やかなんだ。

その二十歳くらいの子が引き上げられて

引き取り人が運んで行ったあとの

2ページにみたない記述がまた

この話を忘れがたいものにする効果抜群なんです。

 

感情的な言葉はぜんぜん含まれていなくて

徹底して乾いた文章なのに・・・だからこそ、

心に大きく訴えかけて印象を強くするんです。

この文体はすごいです。

読んで感じてほしいです。

井伏鱒二『かきつばた・無心状』

 

このひとたちは生きている

文楽の演目で
「え~~そんなの納得いかない~」
「こんなだらしない人に同情なんてできない~」
と思うことは多い。

三浦しをん『仏果を得ず』
の主人公は文楽の大夫だけど
やっぱりそう思う演目がある
っていうことが書いてある。

小説だけど、
やっぱ、大夫でもそう思うのかー
そしたらどうやって語るんだろうー
と興味があった。

たとえば、
「心中天網島」の「天満紙屋内の段」のところに

そうだ、このひとたちは生きている。ずるさと、それでもとどめようのない情愛を胸に、俺と同じく生きている。文字で書かれ音で表し人形が演じる芸能のなかに、まちがいなく人間の真実が光っている。この不思議。この深み。

とある。

なるほど、人は理屈で解せないところだらけなのだ。
それに、きれいな部分ばかりじゃない。

自分もそういう人間だと思うと、気が楽になるし
義太夫に描かれる人びとにかえって共感する。

三浦しをんさん、若いのにこういう記述をできること、すごいな~。
文楽の世界を題材にするっていうのも果敢だし。
読者としては、こんなこともあるかもねー とおもしろく読める。

それに三味線と大夫が
稽古や舞台で火花を散らし合うようすから
芸の厳しさの片鱗も見えて
参考になります。

やらせてもらえる予定はない演目を
自分でひとり稽古しておいて
言われたときにすぐ、語ってきかせられるなんて
スバラシー と思いました。

お客さんが来ない時代を越えて生き続けているってことは
人間の姿をえぐり出して納得させるものがあるからですよねー。
良いものは残る、という大きな証しがここにひとつ。

 

「しかし人間というものは現金なもんだな。」

このせりふは、

軍隊の人びとが戦地で終戦のラジオ放送を聞いて

激しい衝撃を受けるが

三日もすると
部隊解散の用意だというんで

生き生きと活気づいていた、そのことを

言っています。

 

梅崎春生「赤い駱駝」です。

軍人におよそ適さない二見少尉と、

学校からすぐ海軍にひっぱられて

二見より四つ五つ年下でおなじ部隊の「おれ」。

血のにじむような苦痛を重ねて

軍人らしくなろうと努力した男、二見。

いつも弱々しく怯えたような眼色をしていた。

「おれ」は、二見が士官としての自分を保つのに

費やした神経の量を思うと暗然となるくらいだ。

「おれ」は、冷静に、

二見が部隊の中で置かれた位置を見ている。

二見がどんなに嘲笑の的にされ、

その屈辱にまみれた時間が流れ去るのをひたすらに

待っている毎日だったかを知っている。

繰り返し彼が送った残酷な時間を描写する。

梅崎春生のこういう口調

「二見少尉のような男がどんな位置におかれるか、

言わないでも判るだろうな。」

の、

「な」はなんだ!

この、「な」でわたしは、心を揺さぶられる。

言葉の流れって、なんだろう。

 

そしてある夕方、

二人が、宿舎の洞窟のそばの海岸で

何となく一緒になって、

夕焼けを見ながらちょっと立話をする。

そのたった二ページの立話の様子が

壮絶に悲しいです。

なにも悲しいことは書いていないのに、悲しいです。

交わした言葉はほんの二言三言なのに。

 

この短い「赤い駱駝」を初めてわたしは読みました。

『見上げれば 星は天に満ちて』のあとがきで

浅田次郎氏が

「この作家の作品を読み返すと、文学が社会の繁栄とともにいかに幼稚になったかがよくわかる。」

と書いています。

「赤い駱駝」を読むと、

こういうことを指しているんだな、と感じます。

梅崎春生作品、

他のものも読んでみなくちゃ。

わたしに耐えられるかどうか・・わかりませんが。

終戦になって、二見少尉がどうなったかが、

淡々と書かれているのです。

いや、「淡々と」に見えそうだけれども

一つひとつの言葉が、

他の言葉では絶対に置き換えられない力を持って

読む者の心を圧倒します。

・・・・

 

見上げれば星は天に満ちて

というタイトルのついた、
いろんな人生のお話を集めた本を読んでいます。

浅田次郎選で集められた作品の数々。
そこに出てくる人びとは、いわば、
与えられた境遇に逆らわずに生きる人びと。

どうするのが「いい」のか考え考え、
それぞれが「いい」と結論した道を
選んでいく。

「いい」道はその人によって違うし
選んだ道が最善なのかどうかは
誰も決められない。
自分が選んだ道は他人から見れば良くないかもしれない。
選んだ時点で自分が「いい」と思うなら
それでいいとしか言いようがない。

「負けるが勝ち」のことも往々にしてある。
悲劇的に見える人生がほんとうに悲劇ともかぎらない。

ああ、生きるってこんなに苦しい。
ああ、幸せってこんなにいろんな形がある。

などと、慰められたり悟らされたりする本なんです。

にほんブログ村 本ブログ 読書備忘録へ
にほんブログ村

「目に見えないコレクション」

シュテファン・ツヴァイク「目に見えないコレクション」(『チェスの話』ツヴァイク短編集 みすず書房)

これは第一次世界大戦後、ドイツが疲弊していた只中のことです。

ひとりの美術商が、ザクセンにある田舎町を訪れます。
戦前に黙々と銅版画のコレクションを築き上げていたある男に会おうと。
つまり、そのコレクションが今では
おそるべき値打ちを持つようになったため、
買い叩こうというつもりを持って尋ねていったのです。

ところが、
当のコレクターの老人と、
最高の栄誉にも価する彼のコレクションとは
戦争前の状態のままではありえませんでした。

コレクターとしてこの上ないくらい純粋な愛を絵に注ぐ老人の姿は
現代(第一次世界大戦後ですが)の人びとが、
とうに忘れてしまったもののように思われました。

老人と彼のコレクションが置かれている現実を目の当たりにした美術商は、
田舎町を訪れた最初の目的を果たすことをやめて帰って行きます。

美術商が老人のもとから帰っていくに至り、
老人は少年のようにはずんだあかるい声で、
窓から身を乗り出して
『ごきげんよう、お大事に!』
とさけび、ハンカチをうち振るのです。
それは美術商にとって、
わすれることのできない光景となります。

どうか、この美術商が経験した稀有なストーリーを読んでほしいです。

現実が不幸に見えても、
人間は魂のうえで幸福になることができるのです。

抑制のきいた文体もなんだか好ましくて、
翻訳の大切さも思い返しました。

 

空いた時間に自然と始めることがほんとうに自分の好きなことなのかもしれない

台風できょうの予定が中止になりました。
さて、おうちにいられることになりました。
思ってもみなかった「おうち時間」。

机に向かってふと手がのびたのが
「歳時記」→「久保田万太郎句集」
くらしの中にいる人の一瞬をしみじみと写した俳句の数々。
いつも静かな感動をもたらしてくれる久保田万太郎の俳句です。

やっぱり今の季節のものをまず繰ってみる。

秋の雲みづひきぐさにとほきかな

番町の銀杏の残暑わすれめや(昭和14年9月7日、泉鏡花先生逝去)

きのふより根津のまつりの残暑かな

はつ雁の音にさきだちていたれる訃(昭和29年9月5日、中村吉右衛門、逝く)

秋風や水に落ちたる空のいろ

などなど、
それからそれへ読んでいくと、
いま自分がこうして生きているように
句の中にいるその頃の人たちの息遣いが感じられます。
その人たちがどんな家に住み
どんな服を着て
どんなことを思いながら暮らしていたのか
なんとなく思いを馳せます。

その思いを馳せるひとときが
わたしにとって
心が和むような時間になります。
それはむかしもいまも
人は小さなことで悩みながら生きていたんじゃないか
というあきらめでもあるし。
むかしの家並みや着物を想像する楽しみでもあるし。

だから人の息吹きが感じられる久保田万太郎の俳句がすきなんです。

塀について塀をまがれば秋の風