本を読む人が増えると世の中が住みやすくなる

名著と言われる文学作品には、
きっと何か「読んでよかった」ということが
隠されているにちがいないと思う。
けど、難しそうで手が出ない。
けど、読んでみたい。

落語や歌舞伎のように
内容を知っていても
「また見たい」
「また聞きたい」
ということがあるんだから、
名著も、ストーリーや登場人物を知ってからとりかかると
ちゃんと味わえる、っていうのは納得できる。
なんか、前もってマンガやあらすじ本で知ってから読むって
間違ったこと、っていう意識がありましたが、
それは、長ーい名著については
必ずしも当たらないと気付かされました。

読むたびごとに新しい気づきがあるのが名著なんだしね。
たとえ読んでみて「つまらない」「意味がわからない」と感じたとしても
そう感じたきっかけがあるわけだから、
何も感じないのとは雲泥の差なんですね。

登場人物の相関図を書く、っていうのも、
とくにロシア文学なんかでは役立つことうけあいですよね。

名著には普遍性があるから、
昔に書かれたものであっても、
今生きているわたしたちの悩みに答えてくれる。
名著はいろんな読み方ができるから、
どんな人が読んでもその人その人の受け止め方ができる。

それにしても、本を読む人が増えると
世の中が住みやすくなると思う!
なぜなら、自分を相対化して見ることができる人が増えるからです。
いろんな生き方があることを認め合えるからです。
さまざまな人間関係が構築できる人が多くなるからです。
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絵がいい、文がいい、表紙もいい。

本を読む姿を描いたイラスト、っていうだけでも
本好きにはたまらなくいい。
表紙の色合い、デザイン、フォントも、
なんだか本好きを刺激する。
で、文が、穏やかで忙しそうでなくて、いい。

「という、はなし。」っていうのは、
筆者のお父さんの口ぐせだったとか。
気負いがなくて、これもいい。
大した話じゃないけど、ちょっとおもしろいでしょ?
っていう感じで。

昔の人たちって、ちょっと荒唐無稽に近いような話を
いっぱい持ってた、っていう気がします。
今になると、人権とか安全とかそういう観点から
言いづらいことやりづらいことが
昔は平気だったから。

電車が川の上の陸橋を渡るとき、密かに電車の外にぶら下がってる人がいる、とか、
今なら絶対非常停止ボタンで阻止されるようなことが起こっちゃったり。
(これはわたしの父の「という、はなし」)

いろんなことが違ってきたけど、
昔のほうが良かった面もあれば、
今のほうが良い面もたくさんある、ってことだな、と思う。
例えば、人権人権って言いすぎて、
言葉の面だけがんじがらめになって、
心では差別してるってこともある。
だけど、女の人が働くのがあたりまえになって
特別に能力のある女だけじゃなくて
普通の女も生きやすくなったと思う。
男の意識も変わってきましたしね。

なんか話がずれてきた。

『という、はなし』は、イラストが先に描かれて
そこへ文章をつけたものだそうです。
本好き、忙しがるのきらい、な人は
「そうだよね~、ほんとに」
と感じながら1ページ1ページ惜しみながら
めくって味わえる本だと思います。
絵を描いたフジモトマサルさんは、2015年に
亡くなったんですね。若すぎる・・
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書店で見て「買うしかない・・」と感じました。

吉田さんの名前は、ここでも見ました。↓↓
『罪と罰』を読まない』4人のやりとりがおもしろく楽しく読めました。

 

あまりにも長ーいけど、ど迫力と人生がある

『モンテ・クリスト伯』は、『巌窟王』なんです。
昭和中期に生まれ育った我々は、むしろ『巌窟王』で読んだと思います。

現在児童書では上巻下巻に分かれて読めるようになっていますが、
それでも中盤、かな~り冗長に感じます。
ところが解説を読んでみると、これでも「大幅に削った」というのです。
なぜそれほど長いのかという理由を知って、納得しました。
新聞連載小説で、当時(1844年から連載)大人気だっととのこと。
それゆえ、読者サービスで
あれもこれもと寄り道したりエピソードを加えたりしていたのではないでしょうか。
連載当時は、多くの読者がまだなまなましく覚えていることだった
という事実も興味深いです。

だから、現代の読者であるわたしたちは、
中盤のエピソードをいちいち理解に努めて細かく読む必要は
ないのかもしれません・・
実際、そうじゃないと途中で読むのをやめる人が続出するんじゃないかな?

モンテ・クリスト伯になった船乗りエドモン・ダンテスが、
根拠のない密告のために
14年ものあいだ閉じ込められていたイフのシャトーは、
彼が脱出してから何年か後には
観光の対象となっていました。
管理人が「ここに生身の人間を閉じ込めていたなんて信じられない」と
言うくらいひどい穴蔵なのです。

ダンテスが脱出したその経緯と方法が、この長い物語の中でも
一番ドキドキするところです。
「うわーー、これはーー」と、言葉を失うくらい暗く残酷な場面。
そうやって脱出できたことが、復讐劇の始まりです。

後日、観光客として訪れたモンテ・クリスト伯が、
自分が監禁されていた岩窟や
秘密裏に掘った抜け穴を見る場面も感動的です。
岩窟で死んだ仲間の神父が遺した巻物を手に入れるところも
忘れられません。

復讐の物語と言うしかないのですが、
その始まりがあまりにも小さな密告の手紙であり、
ここまで大きくなるか・・
という感を免れないのですが、
時代背景(ナポレオンの賛成派と反対派が密告しあいせめぎ合う)と、
父を餓死させられた、という思いも加わっているから
と解釈もできます。
密告した人々や、裁判に関わった判事たちが
その後あまりにも、のうのうとした生活をしているところが
許しがたいと感じさせられます。

復讐のために生きる人生というのは、幸福であるはずがなく、
モンテ・クリスト伯も、あるとき、
復讐の範囲を超えて人を殺したことを意識します。
そうして、どうしたか・・?

うまくいかないことがたくさん、
むしろそればかり・・な人生にも、
その向こうによろこびはある。
毎日修行を続ける。負けない。

不幸を味わった者だけがよろこびを味わうことができる。
待て、そして希望せよ。

 

なぞはいつも、人の心の奥から来る

黒髪の少年は、どうやら2つの名前を持っているらしい。

それに気づいた級友ココとトモが、その謎を探ろうとする。
だが、その謎は思ったより深かった・・

歴史の授業で十字軍の戦いについて説明していたガブリッチ先生も、
過去に何か秘密を持っている。

そして、謎を解くために2人が上陸した島で出会う、
顔に傷のある男も、黒髪の少年の秘密に深く関わっているらしい。

戦争や宗教をテーマにした話なのかと思うと、必ずしもそうではなく、
もっと、人の心に関わる話と言えそうです。

ココとトモが、相手の言動から自分を振り返る気持ちが
読者としてもうなづける、説教くさくない形で描かれます。
学校の勉強や狭い人間関係にとらわれやすいわたしたちを
もっと広い世界を見ようよ、と誘ってくれて、
人をうらやむ心を溶かしてくれます。

この本も、表紙と裏表紙の絵が、読む前と読んだあとでは、
違って見えてきます・・

50年後に同じ名で出た本

50年後に、同じ名の人が書いた本を、買いました。
これです。
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左が、50年前、先代のときに出た本。
2016年の11月に、当代の八千代さんの本が岩波書店から
出ていたことを知り、購入しました。
並べてみると、感慨深いものが・・。

舞の修行の苦しいことには当然触れてありますが、
それだけではなく、
小さいときのこと、
祇園で育った環境のこと、
みずから「呑気なお嬢さん育ち」とおっしゃるように、
能と舞の家族の生活のこと、
気取りなく、ざっくばらんな口調で書かれてあります。

先代八千代さんと3代目八千代さんの写真では、
なぜか先代八千代さんが、猫を抱いていて、
3代目の後ろに犬が写っています!
先代は昔飼っていた猫が自分で戸をあけるのが
怖かったせいか、動物が苦手だったというけど、
この猫が、くだんの猫かな~?

・・・まったく話がそれてますが。

18代目勘三郎さん、そのあと三津五郎さんまで
お亡くなりになったときは、しばらく気持ちの整理がつかなかった、
とあります。
同世代として、やはりそうですよね・・

いろんなところに散りばめられた芸のお話は、
肉声から出るものだけに、
とても、深く、素人にもたいへん勉強になります。
「一人の女の物語が仄見えるような舞でありたい・・」とか、
観客の側からしても、納得させられる気がします。

章立てが細かくされているので、
自分の興味あるところから読めますし、
語り口調で読みやすいので、
どんどん読み進んじゃいます。

内容も装丁も、
どちらも美しい本です。
たいせつにしたいです。

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奥付
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実を言うと、わたしは衰弱してきてるんだと思うの

おとな流に読める児童文学はたくさんありますが、
これも、とくに疲れたおとなにおすすめだと思います。

それぞれ違う生き物だけど、
それぞれの生き方で生きて、死んでいく。
何千年も前からそうやって生きてきた生き物たち。

農家の納屋でのくらし。
堆肥のにおい。
入り口にかかるクモの巣。

「実を言うと、わたしは衰弱してきてるんだと思うの」
って言うのは、ある生き物が自分の生を言ったことば。
生死にかかわる重大なことだけど、
同時にそれは、あたりまえのこと。

動物たちの毎日が描かれるファンタジーなんだけど、
人間という生き物として生きる自分に
置き換えて思うところが、たくさんたくさん隠れている物語です。

タイトルのシャーロットって誰?
それは、物語が始まって間もなく判明します。
まず、表紙をよくよく見つめるとわかる人もいるかも?

そして、シャーロットのおくりものって何?
この世でいちばんすばらしいものなのに、気づかないもの。

悲しいことがあったときや、
友だちがいない辛さに、
堆肥に身を投げ出して泣くウィルバーの姿なんか、
ほんとに、そんなふうに泣きたい気持ちでいっぱいになります。

このお話を読んでいると、おとなも子どもも、
こういうふうにして涙を何回流すかで、
それだけやさしくなっていくんだ・・
と、思わずにいられません。

ファンタジックな、動物と人間のお話として
四季の移ろいを感じつつ楽しく読めます。
そして、悩んだときに思い出されて
力になってくれるのでしょう。

辛いことがあったおとなと子どもには、
静かな生きる勇気をくれるお話です。


1952年の初版以来19か国で読まれているロングセラーだそうです。
19か国って、むしろ少ない気がする・・
挿絵は『しろいうさぎとくろいうさぎ』の人。

 

図書館に行き本を読むことで変わっていく春菜ちゃん

図書館に行って本を読むことを知らないままだったら
春菜ちゃんはどうなっていったのかな?

本の世界に夢中になって、
本の中の人たちの行動や考え方を知ることによって
自分の心が形作られ、
自信をもって進んでいけるようになった女の子、5年生。

佐久間さんという、平衡感覚を持った友だちが出てくる。
自分がいじめのターゲットになりそうだ、と気づいて
いっしょにいると巻き添えになるからって
春菜といっしょにいないようにする、って、
りっぱ。
将来先生になりたいから、この経験も役に立つ、って、
なるほどしっかりした5年生くらいなら、
そういう考え方をできるかもしれない。
佐久間さんも、春菜と同じように、
家庭的には恵まれていないことがにおわされる。

図書館の雑誌をだまって持って行っちゃったけど
やっぱり返しに来た、
さびしいとき猫をなでていた、竜司くんという子も描かれる。

『あしながおじさん』を100回読み返したい、っていう
春菜ちゃんをはじめ、決していいことばかりではない境遇の子たちに
がんばって生きてほしい、と思う。

子どもの目から見た物語としては、そういう感想を持ついっぽう、
大人の立場で読むと、
春菜ちゃんのお母さんもひとり親で育っていた、っていう辺りに
なんだかな~、という感想も持たざるを得ないノデアル。

 

次はどんな話だろう・・ありがとう中村さん。

短かくて、展開が意外で。

ときに怖くて
ときに幻想的で
ときにあっと驚かされて・・
そういう小説が18編もはいった文庫本です。

翻訳小説は、往々にして読みにくく、わたしは
途中で投げ出してしまうことも多いのですが、
そういうこともなく、
次はどんな話しなんだろう?
っと、おもしろく読めます。

何十年も前に雑誌に載ったきり埋もれていたという作品を
改訳して載せているものがあったり。
埋もれていたけどおもしろい小説、って
あるんですねー。
とくに外国の作品だと発見されにくそうですねー。

表題作になっている「街角の書店」。
1941年10月に「ブルー・ブック」というところに発表された作品だそうで。
その書店の正体がわかってくるのは、物語の最後のほう。
その書店の中を見てみたいけど、それは・・

「ディケンズを愛した男」は、読み終わったあと、
だれかに話したくなります。
そして、ジワーーっと怖さが押し寄せてきます・・

『怒りの葡萄』などで有名なノーベル賞作家・スタインベックの
ユーモラス短編「M街七番地の出来事」も
35年以上前に雑誌に載ったきりだったのが改稿版で読めます。

こんなふうに、18編も楽しみが詰まっている文庫本なのだ。
中村さん、ありがとう!

 

「不幸」に見える人の背後にあるもの

そんな境遇になりたくない、
なんて他人から思われてる人は、
そうなるまでに、いろいろあった。
この当然のことは、多くの人が見ようとしない。

そういう「背後にあるもの」を丁寧に見て
押し付けがましくなく、大げさでもなく、
ほどのよい筆致で描き出した
珠玉の作品が8編もはいっています。

荻原浩『月の上の観覧車』
それぞれ30~40ページくらいの作品なのに、
現在と過去と、その人の思いが溢れるばかりにはいっています。

苦しみに遭って、人はそれまでと変わります。
苦しみに勝ったのか負けたのか、それは、
どちらとも言えないものなのかもしれません。
勝ったからこう、負けたからこう、
とは言えない。
勝つのが良い、負けるのが悪い、
とも言えない。

とくに心に残った、忘れられない作品になるだろう2編はこれらです。

「上海租界の魔術師
1930年代の上海の、
ヨーロッパ建築のホテルや領事館が並び
人力車や2階建てバスが行き交う活気ある街のことを
語る祖父の楽しそうな様子。
さだまさしの『フレディもしくは三教街』を連想させます・・
そこに生きた青年だった祖父の人生。
ぐーたらと言われ続けた人の背後にあった時代の波と織り成された思い。
思いは、その人とともに彼方へ消えていく、
っていうことを知らされます。

「ゴミ屋敷モノクローム」
最初のほうのゴミ屋敷の描写はコミカルで笑えます。
ゴミ屋敷がみんなそうではないんでしょうけど、
こんな場合もあるに違いない、と思わせる、
ミステリーのようなお話。
ゴミを片付けていって最後に行き着いた謎の部屋とは・・

これを書こうと名前などを確認するためにページをめくっていると
自然と、ずっと読み続けてしまうくらい、
うまいんです。
そして、ある部分ではとつぜんに涙腺を刺激されそうになる
切羽詰まった描写があって。

短編なので、それまで思い込んで読んでいたことを
突然覆されて
「ええっっ!!??」
となることもあって
おもしろくて
8編読み終わるまで本を手放せなくなります。

 

いつの頃からか「パッとしない自分」になっていた自分につける薬として

「自分の人生に与えられたのはこの程度で、まあこれ以上でもこれ以下でもないんだろうな」
という感覚が年齢を経るごとに強くなってくる・・・
・・この感覚、わたしもすでに味わったことあります。

自分で自分にブレーキをかけて伸びなくしてしまっているんです。
それをわかっているのに、いつの間にか、
自信のなさから、やってみる前にあきらめてしまう。
がんばって失敗するのが恥ずかしい、っていうような気持ちに
おおわれている。
年をとってくると、そうい思考回路をとることが多くなりがちです。

でもほんとうは、
自分として幸せだと思う生き方をすることは
何歳からでもできる。
自分が楽しいと思うことをやっている時間を、工夫してふやそう。
幸せになろうとみずから願って、方法を工夫して実現していかなきゃね。
「どうせ」とか「自分なんか」っていう感覚を減らそう。

そんなふうに思わせてくれる本です。