「負けない力」って、何に負けない力?

途中ちょっと、ぐるぐる・どうどう、
理屈こねすぎ~
と感じる部分もあるけど、
生きるのに大切なことが随所に散りばめられている本だと思います。

「知性がある」「頭がいい」「勉強ができる」
この3つを同じと思う向きも多いですが、
ほんとうは違うよね。

理屈では違うってわかってはいても、
実生活の中では、
「切れ者ふうの人」「弁の立つ人」「自己主張の強い人」
に主導権をとらせることが多いんじゃないでしょうか。
それで助かる面があるのは事実だし・・

学校で学んだり、本を読んだり、いろんな方法をとおして
知識を得ることは必要で重要なことです。
でも、目的ではない。
目的は?
知識を得てどうするか、です。
得た知識によってオリジナリティを高めることが
本当に必要なことです。

今はネット検索でかんたんに「答え」を見つけることができるけど、
コンピュータは「問題」は発見してくれない。
危機を察知する力は自己保存の本能がある生き物にしかないから。
検索で答えを見つけてコピペして、
その答えをどう活かすか、を考えないなら人間と言えない。

もともと人類が知能を発達させるようになったのは、
生きるために不安があったからだろう、と筆者は書いています。
「このままじゃやばいぞ、なんとかしなくちゃ」
って感じたからだと。
「このままじゃやばいぞ、なんとかしなくちゃ」
って、今のわたしたちも、よくそう思うことじゃないでしょうか。
少なくともわたしはそうなんです・・(笑)
よくつぶやいてます・・

知性って、
生活の中で何かに負けそうになったとき、
自分の頭で考えて助かる道を見つけ出す力かも。

成功したいなら、ときどきは失敗しないとだめ!
成功と失敗を繰り返してこそなんとかなる、っていうのも、
改めて言われると安心しますわ~

本を読む人が増えると世の中が住みやすくなる

名著と言われる文学作品には、
きっと何か「読んでよかった」ということが
隠されているにちがいないと思う。
けど、難しそうで手が出ない。
けど、読んでみたい。

落語や歌舞伎のように
内容を知っていても
「また見たい」
「また聞きたい」
ということがあるんだから、
名著も、ストーリーや登場人物を知ってからとりかかると
ちゃんと味わえる、っていうのは納得できる。
なんか、前もってマンガやあらすじ本で知ってから読むって
間違ったこと、っていう意識がありましたが、
それは、長ーい名著については
必ずしも当たらないと気付かされました。

読むたびごとに新しい気づきがあるのが名著なんだしね。
たとえ読んでみて「つまらない」「意味がわからない」と感じたとしても
そう感じたきっかけがあるわけだから、
何も感じないのとは雲泥の差なんですね。

登場人物の相関図を書く、っていうのも、
とくにロシア文学なんかでは役立つことうけあいですよね。

名著には普遍性があるから、
昔に書かれたものであっても、
今生きているわたしたちの悩みに答えてくれる。
名著はいろんな読み方ができるから、
どんな人が読んでもその人その人の受け止め方ができる。

それにしても、本を読む人が増えると
世の中が住みやすくなると思う!
なぜなら、自分を相対化して見ることができる人が増えるからです。
いろんな生き方があることを認め合えるからです。
さまざまな人間関係が構築できる人が多くなるからです。
IMG_1065

次はどんな話だろう・・ありがとう中村さん。

短かくて、展開が意外で。

ときに怖くて
ときに幻想的で
ときにあっと驚かされて・・
そういう小説が18編もはいった文庫本です。

翻訳小説は、往々にして読みにくく、わたしは
途中で投げ出してしまうことも多いのですが、
そういうこともなく、
次はどんな話しなんだろう?
っと、おもしろく読めます。

何十年も前に雑誌に載ったきり埋もれていたという作品を
改訳して載せているものがあったり。
埋もれていたけどおもしろい小説、って
あるんですねー。
とくに外国の作品だと発見されにくそうですねー。

表題作になっている「街角の書店」。
1941年10月に「ブルー・ブック」というところに発表された作品だそうで。
その書店の正体がわかってくるのは、物語の最後のほう。
その書店の中を見てみたいけど、それは・・

「ディケンズを愛した男」は、読み終わったあと、
だれかに話したくなります。
そして、ジワーーっと怖さが押し寄せてきます・・

『怒りの葡萄』などで有名なノーベル賞作家・スタインベックの
ユーモラス短編「M街七番地の出来事」も
35年以上前に雑誌に載ったきりだったのが改稿版で読めます。

こんなふうに、18編も楽しみが詰まっている文庫本なのだ。
中村さん、ありがとう!

 

「しかし人間というものは現金なもんだな。」

このせりふは、

軍隊の人びとが戦地で終戦のラジオ放送を聞いて

激しい衝撃を受けるが

三日もすると
部隊解散の用意だというんで

生き生きと活気づいていた、そのことを

言っています。

 

梅崎春生「赤い駱駝」です。

軍人におよそ適さない二見少尉と、

学校からすぐ海軍にひっぱられて

二見より四つ五つ年下でおなじ部隊の「おれ」。

血のにじむような苦痛を重ねて

軍人らしくなろうと努力した男、二見。

いつも弱々しく怯えたような眼色をしていた。

「おれ」は、二見が士官としての自分を保つのに

費やした神経の量を思うと暗然となるくらいだ。

「おれ」は、冷静に、

二見が部隊の中で置かれた位置を見ている。

二見がどんなに嘲笑の的にされ、

その屈辱にまみれた時間が流れ去るのをひたすらに

待っている毎日だったかを知っている。

繰り返し彼が送った残酷な時間を描写する。

梅崎春生のこういう口調

「二見少尉のような男がどんな位置におかれるか、

言わないでも判るだろうな。」

の、

「な」はなんだ!

この、「な」でわたしは、心を揺さぶられる。

言葉の流れって、なんだろう。

 

そしてある夕方、

二人が、宿舎の洞窟のそばの海岸で

何となく一緒になって、

夕焼けを見ながらちょっと立話をする。

そのたった二ページの立話の様子が

壮絶に悲しいです。

なにも悲しいことは書いていないのに、悲しいです。

交わした言葉はほんの二言三言なのに。

 

この短い「赤い駱駝」を初めてわたしは読みました。

『見上げれば 星は天に満ちて』のあとがきで

浅田次郎氏が

「この作家の作品を読み返すと、文学が社会の繁栄とともにいかに幼稚になったかがよくわかる。」

と書いています。

「赤い駱駝」を読むと、

こういうことを指しているんだな、と感じます。

梅崎春生作品、

他のものも読んでみなくちゃ。

わたしに耐えられるかどうか・・わかりませんが。

終戦になって、二見少尉がどうなったかが、

淡々と書かれているのです。

いや、「淡々と」に見えそうだけれども

一つひとつの言葉が、

他の言葉では絶対に置き換えられない力を持って

読む者の心を圧倒します。

・・・・

 

見上げれば星は天に満ちて

というタイトルのついた、
いろんな人生のお話を集めた本を読んでいます。

浅田次郎選で集められた作品の数々。
そこに出てくる人びとは、いわば、
与えられた境遇に逆らわずに生きる人びと。

どうするのが「いい」のか考え考え、
それぞれが「いい」と結論した道を
選んでいく。

「いい」道はその人によって違うし
選んだ道が最善なのかどうかは
誰も決められない。
自分が選んだ道は他人から見れば良くないかもしれない。
選んだ時点で自分が「いい」と思うなら
それでいいとしか言いようがない。

「負けるが勝ち」のことも往々にしてある。
悲劇的に見える人生がほんとうに悲劇ともかぎらない。

ああ、生きるってこんなに苦しい。
ああ、幸せってこんなにいろんな形がある。

などと、慰められたり悟らされたりする本なんです。

にほんブログ村 本ブログ 読書備忘録へ
にほんブログ村

普通の人たちが運命に従って生きる、喜びと悲しみ

人間を50年やって、ようやくなんとなくわかる気のする「生きる悲しみ」。

生まれてからずっと、我が身の置かれた境遇で

日々を生きている普通の人。

暮らしのために苦しいことに耐え、いやなことをがまんし、

ときどき楽しみもある。

だけど、そうするうちに、ひょんな運命に巡り合って

のっぴきならない身の上に落ち込み、

とんでもない不幸なことになっていく人も少なからずいる。

モーパッサンの短編は、そうした人たちの話なのです。

どの話も、自分にも起こりそうな話。

この立場になったら、わたしだってこうするしかない。

そんな悲惨なことになるような、大それた人間じゃないのに、

ふとした別れ道から踏み込んでいってしまう闇。

 

少女時代にもたしかに読んだんですけど、

そのときは、遠い国の縁のない人々が主人公の作り話、

としか捉えられなかったように思います。

今読むと、

「あー、そうだろうな。わたしだってこうなる可能性はじゅうぶんある」

と、しみじみ思います。

 

「初雪」の新婚の若い女性とその夫など、

設定を少しスライドさせれば、今の日本でも、そこここで起こっています。

泣いたり喚いたりせず、

来年の今ごろ、自分は冷たい土の下にいるんだ、と

考える女性のあり方が、もどかしいけどかえって潔くていいです。

 

「マドモアゼル・ペルル」も、どこにでもいる中年の男女の

心の奥に深く秘めた感情が、しみじみと心に響きます。

なんでも思ったことを現実にするのが最善というわけではない。

我が身の置かれた場所で、流れを乱さない生き方ってものもある。

ある意味では大事件とも言える出来事から40年以上、

互いに相手を思い、毎日のくらしを静かにこまやかに営んできたある家族。

普通の家族とは違うけれど、それはなにほどのことでもない。

あの事件は、もうほとんど水面下に沈んで

それを知る人もほとんど向こう岸へ行ってしまった。

 

ああ、そういう秘められた感情も包み込みながら

普通の人の日常は過ぎて行くんだ、と思わされます。