このせりふは、
軍隊の人びとが戦地で終戦のラジオ放送を聞いて
激しい衝撃を受けるが
三日もすると
部隊解散の用意だというんで
生き生きと活気づいていた、そのことを
言っています。
梅崎春生「赤い駱駝」です。
軍人におよそ適さない二見少尉と、
学校からすぐ海軍にひっぱられて
二見より四つ五つ年下でおなじ部隊の「おれ」。
血のにじむような苦痛を重ねて
軍人らしくなろうと努力した男、二見。
いつも弱々しく怯えたような眼色をしていた。
「おれ」は、二見が士官としての自分を保つのに
費やした神経の量を思うと暗然となるくらいだ。
「おれ」は、冷静に、
二見が部隊の中で置かれた位置を見ている。
二見がどんなに嘲笑の的にされ、
その屈辱にまみれた時間が流れ去るのをひたすらに
待っている毎日だったかを知っている。
繰り返し彼が送った残酷な時間を描写する。
梅崎春生のこういう口調
「二見少尉のような男がどんな位置におかれるか、
言わないでも判るだろうな。」
の、
「な」はなんだ!
この、「な」でわたしは、心を揺さぶられる。
言葉の流れって、なんだろう。
そしてある夕方、
二人が、宿舎の洞窟のそばの海岸で
何となく一緒になって、
夕焼けを見ながらちょっと立話をする。
そのたった二ページの立話の様子が
壮絶に悲しいです。
なにも悲しいことは書いていないのに、悲しいです。
交わした言葉はほんの二言三言なのに。
この短い「赤い駱駝」を初めてわたしは読みました。
『見上げれば 星は天に満ちて』のあとがきで
浅田次郎氏が
「この作家の作品を読み返すと、文学が社会の繁栄とともにいかに幼稚になったかがよくわかる。」
と書いています。
「赤い駱駝」を読むと、
こういうことを指しているんだな、と感じます。
梅崎春生作品、
他のものも読んでみなくちゃ。
わたしに耐えられるかどうか・・わかりませんが。
終戦になって、二見少尉がどうなったかが、
淡々と書かれているのです。
いや、「淡々と」に見えそうだけれども
一つひとつの言葉が、
他の言葉では絶対に置き換えられない力を持って
読む者の心を圧倒します。
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