だれもがこの物語の主人公になる 『三の隣りは五号室』

築50年あまりの木造アパートに暮した13組の住人たちの、
平凡だけど一様でない日常。
町を歩いているだれもが主人公になる可能性のある
物語っていう気がします。

一から十三、
名字につく数字からわかる13組の住人たちが、
5号室で暮らし、そして出ていった。
50年あまりの間に、老若男女がそこで
人生の一部を、苦しんだり努力したり
笑ったり泣いたりして。

歴代の住人たちが、5号室でより良く暮らそうと
工夫した痕跡が受け継がれていくのもいい。
前の住人が暮したわずかな息吹きが感じられるのは
かえって心地よいものだ。

5号室は、へんな間取りっていうのもおもしろい。
「6畳・4畳半・キッチン3畳」っていうと普通っぽいけど、
その配置が変わっていて
住む人が自由な発想で使うことができるのだ。

ひょんなことから歴代の一部住人どうしが
互いに知らない結びつきを持っていたりする。
それを知るのは、あとの方の住人と神のみ。
部屋は黙って人々を受け入れ、包み込み、送り出してきた。

表札や郵便受けに残った前の住人の名札、
蛍光灯のひも、
カレンダーや靴べらをかけるフック、
当然次の住人も便利に使うだろうと
つけたままで置いていってくれたのかな
なんて、
ちらりとその見知らぬ人のことを考えたことがある人には
よりおすすめです。

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おとなの心にも子どもの心にも効くはなし 『むささび星』

『むささび星』を読みました。

九州、飫肥は杉の産地。

何百年も昔から、人々がこつこつと植えて育ててきた杉が
山一面に美しく並んでいます。
村の人たちは、杉といっしょに生まれ、育ち、年をとっていきました。

かつて、さし木にする若枝を摘み取るのは、
木登りの上手な若者たちの役目。
村祭りで杉の大木に登り、
一番早く、一番高いところにお札をつけてきた者が、
あくる年の春、杉の若枝を摘む役になります。

一番になった者が摘んだ穂は
根ざしがよく、育ちもよいといわれていたのです。

その村におかあさんと二人きりで貧しく暮らす太郎。
太郎は村祭りの木登り競争に子どもながら出ることにしましたが
まだ幼すぎてかわいそうに思ったのか、
神主さんは太郎に二度お祓いを授けてくれました。

太郎のおとうさんは太郎が小さいころに亡くなり
太郎が山で遊んでいると、
おとうさんの声が木の上のほうから
聞こえるように思えたのでした。

太郎は「むささび太郎」と言われるようになり、
何年もが過ぎていきました。

杉が、どこまでも美しく並ぶ山で生きてきた人たちの
くらしの歴史や、「働き歌」の響きが
作者・今西さんの心の中で醸成されてできた
悲しくも美しいおはなしです。

簡便に、速く、薄く、ということが
最善であるかのような今の世の中が、
ほんとうに人間にとって幸せなのだろうか?
と、ふと立ち止まって考えさせられます。

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人生をもうちょっと「まし」にしたいのに 『ヴァンゴッホカフェ』

神保町のブックハウスカフェで
ささめやゆきさんの本を集めて展示していました。
>>神保町のブックハウスカフェ

で、以前読んだ『ヴァンゴッホカフェ』を思い出しました。

ヴァンゴッホカフェでは、
お客たちにも魔法にかかるので、
そこで起こる不思議なできごとを
だれも不思議と思わない。

いるはずのない動物もいるし、
けんかしていたはずだけど仲直りしているし・・・

ある年のクリスマスイブ、
かつて劇場に出演していたスターが店に現れる。

いっしょに出演していた青年の写真を持って。
青年の背後には立派だった劇場が写っている。

老スターは生涯に一度の真の友情を知ったこの場所で
クリスマスイブを過ごすのです。

いろんな人が、ヴァンゴッホカフェの魔法をとおして、
自分のほんとうに大切なことに気づき、
そこへ戻っていきます。

だれもが、大切なことに気づくことはある。
現に個人的に日記を読み返してみたりすると
「けっこういいこと考えてるのにな~」と思う。

けれども、それを生活に「活かす」のは、難しいもんです。
なんでこれを
人生をもっとましにするために活かせないのかね~
と、つくづく思う。

ヴァンゴッホカフェへ行って
その魔法にかかりたい。
そうして、ほんとうに自分にとって大切なことに戻って、
つらぬきたい!

静かな文章を読んだあとに、
そういう悲しくも強い望みが湧いてくる作品です。

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他の人が悲しんでいるのを見るのがきらいな・・ 『木馬のぼうけん旅行』

この本を読み終わって、パタンと裏表紙を閉じたとき、
ひとりでに
「おもしろい。
・・・しかも、勇気づけられ、心あたたまる。」
と つぶやきました。

木馬のぼうけん旅行 (福音館文庫 物語)
木馬が生きて冒険するって、幼い子の絵本の世界だ、
と思うと、そうじゃない!!!

木馬はいつかあなたとわたし自身です。

他の人が悲しんでいるのを見るのがきらいで、
行く先々で良き縁を結び、
その縁に助けられていきます。

そもそも木馬は、
いつまでもいつまでもいっしょにいたい、と思うご主人と
離れ離れになってしまいます。
ご主人とはおもちゃづくりのおじさん。
木で一つ一つ心をこめておもちゃを作っている人。
それまで、村々 町々で心待ちにされていたおもちゃが
あるときから売れなくなっていきます。
安いおもちゃが町で売られるようになったからです。

お金がなくなって
いっしょに暮らす木馬が、
おじさんを助けようと働くのです。
はじめあざ笑っていたお百姓たちも
いっしょうけんめいな木馬の姿を見て
笑うのをやめます。
炭鉱で働いて目が見えなくなり
死んだほうがいいと思ったとき、
「きれいな木馬!」
と言ってくれる子どもに出会い、
もう少し死なないでいよう、と思い直します。

見知らぬ小さな木馬として
馬が一頭足りなくなった王様の馬車の列に加わったり
困っている鍛冶屋さんのために薪を集めてきたり
そこにいる人々を助けて喜ばれることを重ねていきます。

いつも、のぞみは故郷に帰ってご主人といっしょにいることだけ、
という気持ちで、
「ただの小さなおとなしい木馬です。」
と言っている。

それでも、何か せとぎわのときには、いつでも
どうするといいのか  よくよく考えてから行動しています。

そして、運が悪いときには
少しでも良かったことを考えて
これでも運が良かったんだ、と思っている。
海で死にそうになったとき、
ぼくは馬として死ぬんだ、と
誇りを捨てない。
だいじなことの前ではへんに焦らない。

人々の中にも
流行おくれだと言いながらも木馬を直してくれたり
買ってくれたりする人がいる。
ほんとにいいもの、心のこもったものの力を
感じ取ることができる人がいる。

ご主人・ピーダーおじさんと再会できるかどうか、
読んでみてほしいです。
ちょっと意外な結末なのです。

おわりのほうで木馬が
人のために働けるのはなんといううれしいことだろう、
と言っています。

子ども向けの本だと思って読み始めても
木馬はいつか読者自身になっています。

大人こそ、児童文学を読むといいです。
毎日を生きるためには、
こまごまとしたノウハウも 不要だとは言いませんが
それらをみんな含めた、考え方の真髄みたいなものが
子どもの本の中にはあふれています。

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生きにくいけど生きていく全大人に 『子どもの自分に会う魔法』

映画 「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」 を見た帰りに、
地元の図書館に寄った。

ディキンスンの詩を読もうとしたのだ。

で、関連の書架を見て移動しているうちに、
このタイトルを見て、手にとり、適当なページを開くと・・
86ページ 『エミリー』の紹介ページだったのです。

『エミリー』は絵本で、
エミリ・ディキンスンのことを書いた本なのです。
この本自体は、ぜんぜんディキンスンの関連書ではないのに
手にとって開いた途端、こちらの心を見たかのように、
きょう見た映画の主人公の本が出てくるなんて!
偶然の一致に、わたしとしてはかなりびっくりしました。

『子どもの自分に会う魔法』は、
「大人になってから読む児童文学」というサブタイトルがついています。
MOE連載をまとめたものだそうです。
表紙が酒井駒子さんの絵で、いい感じなんです。
筆者も感激したそうです。

今、本が好きだけど、
児童向けの本をどのくらい読んだか?
と思い返してみる。

1960年代、70年代に子ども時代を送りました。
べつに親が本好きだったわけではなく、
図書館が多いわけでもなかった環境。
近くの公民館に本棚がひとつあって貸出していました。
怪盗ルパンシリーズを借りてけっこう読んだ記憶があります。

子どもだった自分について思い出すことは
あわただしくて、あまりない。
ふとした隙間の瞬間に、頭のすみを横切るくらい・・
そんな中、子どもの本は、
大人になった自分と子どもの自分の架け橋なんですね。

「大人の心」と「子どもの心」のかけ橋、と
著者が言っていることに賛成です。

自分の心が、今のようになっている要因として、
読んだ本たちが大きく影響していることに気づきます。
良い本たちのおかげで、今こうしてなんとか生きているんだな、と思う。

子どもの本は、大人も読むといいものばかりだと思います。
紹介されている本の一例は、

あおい目のこねこ
人とちがっているのをあざ笑われるけど・・

100まんびきのねこ
ねこでいっぱいの丘から全部のねこをつれて
帰ってきたおじいさん、
さいごに1ぴきだけ選んだのは・・

手ぶくろを書いに
よあけ  柳宗元の詩から着想して描いたんですね。
チリンのすず
悲しい本
くまさん(まどみちお) なんでもないことが大変なことなのだ
長い長いお医者さんの話
など。

子どもも大人も、生きるのはたいへんだけど、
自分をつらぬきとおして生きていくのです。
なんとかして。

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転んだらけがをするかもしれないけど 『転んでも、大丈夫 ぼくが義足を作る理由』

『転んでも、大丈夫 ぼくが義足を作る理由』

「体に障がいをかかえても、残された機能を精一杯使って
生きている人たちがいる」
ここでは、足の一部を失って義足を使う人たちのこと。

義足を作る人・臼井さんは、義足はかくすもの、と考えず
体の一部として見せるものへと変えようとしています。
はじめの8ページ分に、カラー写真が載っていて
義足を作る作業中の臼井さんの姿と
義足でスポーツをしたりファッションショーをしたりする人たちの姿が
紹介されています。

たとえば、交通事故で右足をひざ下から切断した18才の青年
鈴木くん。
ハンドボール選手だったけど、体がぶつかり合うプレーが多いため
陸上の走り高跳びへ転向。
どんなにつらくてもへこたれない彼の姿に、
トップアスリートは、競技の才能だけでなく
努力する才能も持っていると、感じるという。

そして強くなる人は、ものごとを自分で考える。
わからないことがあるときは、自分から
具体的に質問や相談をしてくるそうです。
きっとそれは、義足のことに限らず
生きる姿勢そのものなんですね。

臼井さん自身、学校を卒業後、自分の進路を決めかねて
仕事をいくつか変えたりした時期があったそうです。
そんな経験もあるから、義足をつける相手の人の気持ちも
くみとることができるのかもしれません。

足が不自由な人は、
転んだらけがをするかもしれないから
家に引きこもってしまうことが多い。

「転んでも、大丈夫」 という題名は、
転んでも、一人で起き上がれるように練習しよう、
一人で起き上がれる、と思えるようになると
走り出す勇気がわいてくる
という意味。

臼井さんが義足を作る理由は、
患者さんの未来をちょっとでも明るくできたら、
という希望からだそうです。
決して大げさでなく、悲しみを背負った人が
それを乗り越える手伝いになったらうれしいという気持ちから。

体が不自由、という意味では、
それが外に見える見えないという差こそあれ、
不自由な人はたくさんいる。
わたしもその一人。
見えない不自由さを持っている人はそれゆえに辛い、というのも事実。
体の不自由さ、心の不自由さを抱えながら生きるわたしたちが
よりおおらかに生きられる世の中になると、いいと思う。
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人とのつながりが喜びをつれてくる 『ちばてつや自伝 屋根うらの絵本かき』

敗戦がわかって
旧満州の奉天で、安全な場所をさがして逃げる途中、
父と同じ会社で働いていた中国人、徐集川(じょしゅうせん)さんに
ばったり会い
物置の屋根うら部屋に住まわせてもらった。

この偶然がなければ、
ちばてつやさんが漫画家になることはなかったかも、と言う。

徐さんだってもし日本人をかくまっていることがわかれば
大変なことになるわけで、
命がけとさえ言える。
それでも、仲良くしていた日本人の家族をなんとか
逃してやりたいと、屋根うら部屋においてくれたわけです。

「日本人」とか「中国人」とか
一般名詞として全体を考えるだけだと反感を持つかもしれなくても
「ちばさん」「徐さん」という
知っているその人、となると、べつの感情がわいてきます。

ちばてつやさんは漫画家として有名な人ですが、
有名になるまでの、また、有名になってからのも、
いろんな失敗や苦い思い出や悔しい思い出も書かれていて、
そこがいいです。

冷たい人、騙すようなことをする人もいる。
いっぽうで、
連載が2つ重なって、一つを途中で人にまかせてしまったとき、
最終回にちばさんの名前も入れて
「あつくおれいをもうしましょう」と書いてくれた編集者の人の気持ちに
涙が出た、、という話がある。

そういう人のおかげで、漫画家ちばてつやさんがあるんだな、と。
有名な人でなく、わたしたちの人生のまわりにも、
いろんな人が現れては消えていく。

いやなことも多いけど、
喜びをもってきてくれるのはやはり、
人とのつながりなのかもしれないな。


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日本の怪談はどの国のより群を抜いて怖い

古典をわかりやすく現代語にした本だろうなー
と思って読み始めると、
登場してくるのは、ファミレスでドリンクバーの
カルピスとメロンソーダを飲んでいる高校生男子。
次のコミケに出すもののアイデアがなく悶々としている。

それと日本の古典の真景累ケ淵とが
どうかかわってくるのか?
とにかくすでに24ページには、ページいっぱいに、
殺された按摩の宅悦が
恨めしそうにこっちをにらんでいる挿絵がはいっている。

いつもは訳者としておなじみの金原瑞人さんが、
昔から好きだという怪談話を
軽快に書き直してみせてくれているので、
「へーー、こういう話だったんだ~」と
どろどろした話なのに、
妙にすっきりとした気分になれます。

金原さんによると、日本の怪談は
どこの国とくらべても群を抜いて怖いようです。
その源流がこの累ケ淵をつくった三遊亭圓朝というわけです。

どうしようもない飲んだくれ男がおかす罪から始まる
長くおどろおどろしい悲劇でありながら、
細部を見てみると喜劇でさえある。
その、一見して矛盾しているけど
「そうかもしれねえなー」となぜか納得できる話の運びです。
人生そんなもんかもしれねえ、などと
したり顔をするつもりじゃないけど
悲劇と喜劇は背中合わせだって、思うことありますよね。

ストーリーで楽しむ日本の古典シリーズの20番目です。

ファミレスドリンクバー入り浸りの高校生3人(最初にいた1人に2人が加わり)は、
8月のコミケが終わって、
なっちゃんオレンジ・CCレモン・さわやか白ぶどうで乾杯している。
売れた冊数からして
「時給10円を切るな」という結果だったにもかかわらず
なんかおもしろかった、と言いながら。

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「義太夫を聴こう」と呼びかけるのはなぜ?

橋本治さんの小説の書き方は義太夫?
・・・まさにそうだと、ご本人が答えています。
それがどういう意味かはひと言では説明できませんが、
「ここでテーンと一拍はいる」とか考えて書くことはあるそうです。

義太夫を聞いたことがない日本人は今や多いでしょう。
けど、義太夫は橋本さんが小説を書く方法に影響を与えるほどに
わたしたちの生活のいろんなことに投影できるものです。
いい物は普遍的だ、ということでしょう。

一度も義太夫を聞かずに日本人やってんんじゃない!
なんて乱暴なことは言いたくはありませんが、
義太夫を好きなほうの人間は、
多少暴言ぎみと知りつつ、一人でも多くの人を聞きに行かせたい。

で、今はインターネット上でも義太夫を聴くチャンスがたくさんあります。
どれでもいいんです。
てきとうに選んで。
そうは言っても皆目選べん、という向きには、
メロディーがあって歌のようで聞きやすい
「道行き」がおすすめ。
美しくどこか哀しいメロディー、三味線の迫力、太夫さんたちの美声、
それらを一気に身に浴びると、
日本に生まれて良かった、なんて感じると思います。

それから、特徴は不幸なストーリー満載なこと。
「不幸」と言うと特別なことのようだけど、
わたしたちの毎日だって、
思い通りにならないことの連続です。
希望がかなえられない、
自分の才能のなさにいやになる、
手に入れたいものは手にはいらない。

「不幸」って人生にたった1回という大きなものばかりではなく、
だれもが心に悩みを、入れ替わり立ち替わり抱えているもの。
義太夫のストーリーにある「不幸」は、言わば
毎日なんとかがんばって生きているわたしたちと
重なるお話ばかりなんだな。
義太夫の登場人物たちを見ていると
隣りの人の苦しみもわかろうというもの。

となると、義太夫に臨んでは、
どんなお話かを、理解するのもいいけど、
道行きならなおさら、理解よりは
肌呼吸で行きましょう。
肌から義太夫を吸い込むのです!

「義太夫を聴こう」というタイトルは、
筆者の橋本さんがあるとき「とんでもなく特殊な理由で」
「今は義太夫を聴いている余裕なんかない」
と思っていたエピソードから来ているのではないでしょうか。
そういうときがあった自分だけど、
本来義太夫を流しっぱなしにして仕事をするくらい義太夫愛に満ち満ちているし
古典に接点を持たないなんてもったいないよ、聴こうよ、
っていう気持ちからかな、と勝手に想像しています。

対談に登場して表紙にもなっている鶴澤寛也さん、
じょぎのクールビューティーと紹介されているのを読んだことありますが、
ほんとうに女性も憧れるかっこよさです。

「負けない力」って、何に負けない力?

途中ちょっと、ぐるぐる・どうどう、
理屈こねすぎ~
と感じる部分もあるけど、
生きるのに大切なことが随所に散りばめられている本だと思います。

「知性がある」「頭がいい」「勉強ができる」
この3つを同じと思う向きも多いですが、
ほんとうは違うよね。

理屈では違うってわかってはいても、
実生活の中では、
「切れ者ふうの人」「弁の立つ人」「自己主張の強い人」
に主導権をとらせることが多いんじゃないでしょうか。
それで助かる面があるのは事実だし・・

学校で学んだり、本を読んだり、いろんな方法をとおして
知識を得ることは必要で重要なことです。
でも、目的ではない。
目的は?
知識を得てどうするか、です。
得た知識によってオリジナリティを高めることが
本当に必要なことです。

今はネット検索でかんたんに「答え」を見つけることができるけど、
コンピュータは「問題」は発見してくれない。
危機を察知する力は自己保存の本能がある生き物にしかないから。
検索で答えを見つけてコピペして、
その答えをどう活かすか、を考えないなら人間と言えない。

もともと人類が知能を発達させるようになったのは、
生きるために不安があったからだろう、と筆者は書いています。
「このままじゃやばいぞ、なんとかしなくちゃ」
って感じたからだと。
「このままじゃやばいぞ、なんとかしなくちゃ」
って、今のわたしたちも、よくそう思うことじゃないでしょうか。
少なくともわたしはそうなんです・・(笑)
よくつぶやいてます・・

知性って、
生活の中で何かに負けそうになったとき、
自分の頭で考えて助かる道を見つけ出す力かも。

成功したいなら、ときどきは失敗しないとだめ!
成功と失敗を繰り返してこそなんとかなる、っていうのも、
改めて言われると安心しますわ~