くまの子からの手紙を、泣きながら読むうさぎの子 『森に学校ができた』

うさぎは冬眠しない。くまは冬眠する。
「ぼく、ぜったい冬眠なんかしないから」と言っていたくまの子・ダンは
「もう眠くて学校に行けません」とうさぎの子・ジャッキーに手紙を書きます。
ジャッキーは、その手紙を泣きながら読むのでした。
そのことも、なんて罪がないんだ! と感動しますし、
さらに、
泣きながら読んでるジャッキーの挿絵があるんだけど、
その絵が、なんとも言えず情感あふれてすばらしいんです。
「人生は生きるに値する」ということを十二分に感じさせてくれます。
(動物だけど 笑)

森に学校ができたきっかけもすてきだし
毎日そこで習う内容も、生きるのに欠かせないことばかり。
学校ってそもそもこういうところじゃなかったのか? なんて
よけいなゴタクまで言いたくなるような。

キノコ採りについて習った日、リスのチャップが
さっそく実践して成功と失敗を体験するお話も、
だれかに話して聞かせたくなります。
翌日食べた大きなキノコには、
チャップが崖から滑り落ちたときについた
大きなへこみがついていたんだよ~!

6つの章があって、6つの種類の動物の子が主人公になります。
それぞれに苦しいことや悩みがあって、
ほんとにけなげな「人生」の断面が切り取られて描かれています。

子ども用の童話、と軽く扱っちゃあいられない気持ちです。

まじめに暮らしていたふつうの人たちが 『まっ黒なおべんとう』

大きな字で読みやすい、小学校中学年から読めるおはなしです。

広島の原爆資料館に展示されている、
中身がまっ黒になったおべんとう箱。

その朝、おべんとう箱に、
大豆と麦と米のまぜごはんをつめてもらって
自転車で出かけていったのは、
しげるくんという、
その年広島の中学校に合格して元気に通っていた少年でした。

おかあさんのしげこさんは
原爆で死んだしげるくんのことは
「思い出すのがつらいけえ」
ずっと話さずにいたといいます。

けれども、
「それだけじゃいけませんよのう。
原爆が一つでもあるかぎり、平和じゃないですけえのう
と思い直して
古い日記や写真や手紙をだしながら
作者に話してくれた話を書いたものです。

たくさんの死体から、わが子の姿をさぐりあてた
おかあさんのしげこさんの気持ちを思ったとき、
この話を本にしようと決心した、と
あとがきにあります。

1944年ごろの広島のふつうの人たちの毎日のくらしも
生き生きと描かれているので
「こんなささやかなくらしを、まじめに生きる人の命を、奪うとは。」
という感情をかきたてられます。

モルモット史上特筆すべき事件を話したモルモット~なぜモルモットにはしっぽがないか? 『モルモット・オルガの物語』

まちがいなくとくべつなモルモットがいました。
オルガっていう名前です。

ペットショップで暮らしていたけど、
ある日突然にそこを出て新しい家に行くことになります。
オルガっていう名前があるのに
違う名前をつけられそうになったから
そんなのいや! と思い
なんとかして「あたしの名前はオルガ!」
ってわからせようと考えて、実行しました。
モルモットだってそれくらいのことできるんだから・・
そして「オルガ・ダ・ポルガ」っていう名前をつけてもらうことに成功します。

・・・そんな感じで始まる、モルモット・オルガの物語です。

モルモットにしっぽがない、って
飼ったことがない人は知らないかも。
ネコのノエルに
「しっぽがない」ってばかにされそうになったとき、
モルモットになんでしっぽがないか、教えてあげましょうか?
っていうわけで、
モルモット史上特筆すべき
一大事件にかかわる壮大な物語を語ることになるのです。
「むかしむかし・・・」

このうえなくすてきだったしっぽを
モルモットがどうしてなくしてしまったのかが
解き明かされます・・・
そこには、ある美しいお姫さまと王子さまと、
切り立ったがけの上に建っていて
だれも登っていくことのできなかったお城が
出てきます。

オルガはカレンちゃんという女の子の家で
モルモットが住みやすいように工夫された小屋で生活することになりますが
もくじを見るとわかるように
快適なことや鼻高々なこともたくさんあるかわりに、
恐ろしいこと、悔しいこと、悩むこと、困ったことも
たくさんたくさん起こります。
モルモットの病院にかつぎこまれることさえあります。

オルガはあるとき
行方不明になったあと自分の小屋にたどりついて
カレンちゃんにぎゅっとだきしめてもらい
「家に帰るのはしみじみいいものだ」と思ううちに
「たくさん食べて、少しだけ考える」という
モルモット一流の哲学を編み出します。

しかも、モルモットコンテストに出場して
名誉なような名誉じゃないような微妙な名前の賞をもらいます。
なんという賞だと思いますか?

次々に起こる事件に、オルガがいっしょうけんめいに立ち向かうので
そのなりゆきが知りたくて
またあるときは、自分もオルガといっしょに
外の世界をびしょぬれで必死に走り回っている気がして
ずんずん読んでいるうちに
物語は終わりに近づいていきます。

作者のマイケル・ボンドさんが
モルモットをだいている写真が裏表紙に載っています。
オルガや友だちの動物たち、
飼い主さんたち、町の人たちはきっと
みんなマイケルさんの町に住んでいた動物や人です。

きっと、マイケルさんの町で起こった出来事は
このお話の中の出来事とそっくりなのにちがいありません。

「くまのパディントン」の作者であるマイケルさんの心を通すと
動物たち人間たちの毎日がこんなにも楽しそうなものに
なるんだな、と感じます。
「パディントンに町で出会っても驚かないでしょう」っていう言葉を
読みました。
その感性が動物たちに強すぎないキャラクターを与え
人間と動物が一緒に暮らすことが
楽しい自然なことに感じられるんじゃないでしょうか。

マイケルさんは戦争中は空軍陸軍に入隊していたとのこと。
昨年亡くなったときはSNS上にも追悼のコメントがあふれたそうです。

心で見る。人も物も。 自分とちがう人のことは、わからなくていいの? 『もちろん返事をまってます』


「よその学校の生徒たちと文通したい人?」
ってある日先生が聞いたから、ノアは手をあげました。
そして相手は同じ年の男の子ドゥディでした。

ドゥディは、自分のことを、こう言います。

初めての人が家を訪ねて来てぼくに気がつくと
ぎょっとしちゃって
見ちゃいけないものを見たっていうふうにする。
そして帰りがけに「ほんとうにお気の毒に」
なんてあいさつしていく人もいる。

脳性マヒで手足が不自由なドゥディは、
手がふるえてペンをしっかり握ることができないので
手紙はワープロで打ちます。
首はななめにかしいでいて、
ボタンで操作する電動車椅子を使うこともできません。

障害のあるドゥディは、
まわりの人にどんなふうに思われているか
愛されているいっぽう、心配かけていることを
よくわかっているのです。

ノアもまた、そんなドゥディを
傷つけたくないし、
だからといって、同情した手紙を書きたくはないと思っています。

文通相手に会ってみたい、でも会うのはこわい
っていうのは、相手が障害があるとかないとかにかかわらない。
けど、ドゥディの場合はその心配がとびぬけて大きい。
会ったらぜったいノアに驚かれる、嫌われるって思っているから。

健康な体でふつうに暮らしている子たちは、
はじめはボランティア精神みたいなものを発揮して
いいことをしているんだって夢中になって
障害のある自分たちとつきあうけど、
そのうちあきて裏切られてしまう、
というのが常でした。

ノアとドゥディが対面して、二人の友情はどうなったか。
読んでいくうちに予測ができるでしょう。

イスラエルの作家の作品、っていったいどのくらい
翻訳されているのか、よくわかりません。
たぶん、数少なそうであり、
違った価値観、違った生活感覚が描かれていそうに思いました。

けれども、微妙なテーマを扱ったこの作品さえ、
日本でわたしたちが考えるのと
感覚が同じです。

心で人や物を見ることのできる人にとっては、
現実は、あれこれ気にして心配しているより
ずっとずっと簡単だということです。

「障害がある、ない」って、どういうことなんだろう?
って、わからなくなります。
目に見える障害、見ただけではわからない障害、
身体、心、
まったく障害がない人っているんだろうか?
とか、思われてきます。

見捨てられ行くところのないみじめな人は、ほんとうにそうなのか? 『マーガレット・マーヒーお話集 魔法使いのチョコレートケーキ』 見分けられる目を持とう

石井桃子さん訳『マーガレット・マーヒーお話集 魔法使いのチョコレートケーキ』を読みました。

8つのお話がはいっています。
ニュージーランドに住む作家マーヒーさんの作品から、
訳者の石井桃子さんが、
ふしぎなことのでてくるお話を選んだものです。

石井桃子さんが、イギリスの本屋さんから送ってもらった
新刊書リストを見ているうちに、
「・・・第一お話集」という平凡な書名なのに
ぱっと目にとびこんできて
すぐに注文したという逸話があとがきにあります。

本の目録を見る楽しさが伝わってくるし
その直感ともいうべき出会いが
かなりの確率で的中していることに
本好きとして共感します!

表題の「魔法使いのチョコレートケーキ」は
8つのお話のうちのひとつです。

わたしたち多くの現代人が
信じなくなった「ふしぎなこと」は
どんなに人を幸せな気持ちにさせる(させた)でしょう。
子どもである時期にはせめて持てるようにさせてやりたいような
不思議を信じる気持ちを
呼び覚ましてくれます。

「たこあげ大会」「葉っぱの魔法」「遊園地」と
読み進むうちに、
子どものころの「たこ」は、
単純で目に見えていたが
おとなになってからの「たこ」は
簡単には見えない。
あるとき、その人にとって「それ」と
わかるときがくるんだな、
と気がつきます。

物語を読んだ「心」は、
ほかの人にもはたらきかけて、
この、世の中の空気をきれいで吸い込みやすくするのでしょう。

見捨てられ行くところのないみじめな人に見える人びとが
ほんとうにそうなのかどうか、
見分けられる目を持とう、と決心させてくれます。

「メリーゴーランド」にでてくる
虹の色のつばさで上へ上へとのぼっていく木馬たちの姿を
忘れまいという気持ちになります。

おしまいの「幽霊をさがす」で
古い家にあるこわれた椅子や
いっしょに遊んでいた女の子を待っているようなお人形が
風化した深い悲しみを感じさせるところまで8編、

実は、途中からお手洗いに立ちたくなったけれど
次はどうなるのか気になりすぎて
読み終えるまで我慢してしまいました・・・
それほどおもしろく心にしみ入ります。


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おとなの心にも子どもの心にも効くはなし 『むささび星』

『むささび星』を読みました。

九州、飫肥は杉の産地。

何百年も昔から、人々がこつこつと植えて育ててきた杉が
山一面に美しく並んでいます。
村の人たちは、杉といっしょに生まれ、育ち、年をとっていきました。

かつて、さし木にする若枝を摘み取るのは、
木登りの上手な若者たちの役目。
村祭りで杉の大木に登り、
一番早く、一番高いところにお札をつけてきた者が、
あくる年の春、杉の若枝を摘む役になります。

一番になった者が摘んだ穂は
根ざしがよく、育ちもよいといわれていたのです。

その村におかあさんと二人きりで貧しく暮らす太郎。
太郎は村祭りの木登り競争に子どもながら出ることにしましたが
まだ幼すぎてかわいそうに思ったのか、
神主さんは太郎に二度お祓いを授けてくれました。

太郎のおとうさんは太郎が小さいころに亡くなり
太郎が山で遊んでいると、
おとうさんの声が木の上のほうから
聞こえるように思えたのでした。

太郎は「むささび太郎」と言われるようになり、
何年もが過ぎていきました。

杉が、どこまでも美しく並ぶ山で生きてきた人たちの
くらしの歴史や、「働き歌」の響きが
作者・今西さんの心の中で醸成されてできた
悲しくも美しいおはなしです。

簡便に、速く、薄く、ということが
最善であるかのような今の世の中が、
ほんとうに人間にとって幸せなのだろうか?
と、ふと立ち止まって考えさせられます。

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他の人が悲しんでいるのを見るのがきらいな・・ 『木馬のぼうけん旅行』

この本を読み終わって、パタンと裏表紙を閉じたとき、
ひとりでに
「おもしろい。
・・・しかも、勇気づけられ、心あたたまる。」
と つぶやきました。

木馬のぼうけん旅行 (福音館文庫 物語)
木馬が生きて冒険するって、幼い子の絵本の世界だ、
と思うと、そうじゃない!!!

木馬はいつかあなたとわたし自身です。

他の人が悲しんでいるのを見るのがきらいで、
行く先々で良き縁を結び、
その縁に助けられていきます。

そもそも木馬は、
いつまでもいつまでもいっしょにいたい、と思うご主人と
離れ離れになってしまいます。
ご主人とはおもちゃづくりのおじさん。
木で一つ一つ心をこめておもちゃを作っている人。
それまで、村々 町々で心待ちにされていたおもちゃが
あるときから売れなくなっていきます。
安いおもちゃが町で売られるようになったからです。

お金がなくなって
いっしょに暮らす木馬が、
おじさんを助けようと働くのです。
はじめあざ笑っていたお百姓たちも
いっしょうけんめいな木馬の姿を見て
笑うのをやめます。
炭鉱で働いて目が見えなくなり
死んだほうがいいと思ったとき、
「きれいな木馬!」
と言ってくれる子どもに出会い、
もう少し死なないでいよう、と思い直します。

見知らぬ小さな木馬として
馬が一頭足りなくなった王様の馬車の列に加わったり
困っている鍛冶屋さんのために薪を集めてきたり
そこにいる人々を助けて喜ばれることを重ねていきます。

いつも、のぞみは故郷に帰ってご主人といっしょにいることだけ、
という気持ちで、
「ただの小さなおとなしい木馬です。」
と言っている。

それでも、何か せとぎわのときには、いつでも
どうするといいのか  よくよく考えてから行動しています。

そして、運が悪いときには
少しでも良かったことを考えて
これでも運が良かったんだ、と思っている。
海で死にそうになったとき、
ぼくは馬として死ぬんだ、と
誇りを捨てない。
だいじなことの前ではへんに焦らない。

人々の中にも
流行おくれだと言いながらも木馬を直してくれたり
買ってくれたりする人がいる。
ほんとにいいもの、心のこもったものの力を
感じ取ることができる人がいる。

ご主人・ピーダーおじさんと再会できるかどうか、
読んでみてほしいです。
ちょっと意外な結末なのです。

おわりのほうで木馬が
人のために働けるのはなんといううれしいことだろう、
と言っています。

子ども向けの本だと思って読み始めても
木馬はいつか読者自身になっています。

大人こそ、児童文学を読むといいです。
毎日を生きるためには、
こまごまとしたノウハウも 不要だとは言いませんが
それらをみんな含めた、考え方の真髄みたいなものが
子どもの本の中にはあふれています。

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あまりにも長ーいけど、ど迫力と人生がある

『モンテ・クリスト伯』は、『巌窟王』なんです。
昭和中期に生まれ育った我々は、むしろ『巌窟王』で読んだと思います。

現在児童書では上巻下巻に分かれて読めるようになっていますが、
それでも中盤、かな~り冗長に感じます。
ところが解説を読んでみると、これでも「大幅に削った」というのです。
なぜそれほど長いのかという理由を知って、納得しました。
新聞連載小説で、当時(1844年から連載)大人気だっととのこと。
それゆえ、読者サービスで
あれもこれもと寄り道したりエピソードを加えたりしていたのではないでしょうか。
連載当時は、多くの読者がまだなまなましく覚えていることだった
という事実も興味深いです。

だから、現代の読者であるわたしたちは、
中盤のエピソードをいちいち理解に努めて細かく読む必要は
ないのかもしれません・・
実際、そうじゃないと途中で読むのをやめる人が続出するんじゃないかな?

モンテ・クリスト伯になった船乗りエドモン・ダンテスが、
根拠のない密告のために
14年ものあいだ閉じ込められていたイフのシャトーは、
彼が脱出してから何年か後には
観光の対象となっていました。
管理人が「ここに生身の人間を閉じ込めていたなんて信じられない」と
言うくらいひどい穴蔵なのです。

ダンテスが脱出したその経緯と方法が、この長い物語の中でも
一番ドキドキするところです。
「うわーー、これはーー」と、言葉を失うくらい暗く残酷な場面。
そうやって脱出できたことが、復讐劇の始まりです。

後日、観光客として訪れたモンテ・クリスト伯が、
自分が監禁されていた岩窟や
秘密裏に掘った抜け穴を見る場面も感動的です。
岩窟で死んだ仲間の神父が遺した巻物を手に入れるところも
忘れられません。

復讐の物語と言うしかないのですが、
その始まりがあまりにも小さな密告の手紙であり、
ここまで大きくなるか・・
という感を免れないのですが、
時代背景(ナポレオンの賛成派と反対派が密告しあいせめぎ合う)と、
父を餓死させられた、という思いも加わっているから
と解釈もできます。
密告した人々や、裁判に関わった判事たちが
その後あまりにも、のうのうとした生活をしているところが
許しがたいと感じさせられます。

復讐のために生きる人生というのは、幸福であるはずがなく、
モンテ・クリスト伯も、あるとき、
復讐の範囲を超えて人を殺したことを意識します。
そうして、どうしたか・・?

うまくいかないことがたくさん、
むしろそればかり・・な人生にも、
その向こうによろこびはある。
毎日修行を続ける。負けない。

不幸を味わった者だけがよろこびを味わうことができる。
待て、そして希望せよ。

 

いつどこでも「ふつうの」感覚を

東京ディズニーランドは、
アミューズメントパークとして有名なだけでなく、
そこの仕事の流儀のようなものも
かなり徹底していて有名ですね。

フィクションなので、ほんとうの話だと思っては間違えるんですけど
「そうだろうな~」
ということが描かれていて
ついつい実話と錯覚してしまう・・

ミッキーの着付けが、
武将が鎧を身につけるかのような緊迫感とともにおこなわれるなどは、
ショーやパレードが楽しければ楽しいほど、
それとは反比例して舞台裏は厳しいものなのかもしれない、と思わされます。

新入りの後藤が
「ふつうの」感覚のまま仕事をしようとする姿勢が
さいごには受け入れられてよかった、と思います。

誠意をもっておこなえば、わかってくれる人が必ずいる、と思えて救われます。

それにしても、ミッキーマウスの着ぐるみがこんなに重要なものだって
一般人のわたしはぜんぜん知りませんでした。
着ぐるみ紛失の顛末を読んでみてほしいです・・

 

不器用な生き方でいい・・『「また、必ず会おう。」と誰もが言った。』

自分はどちらかというと人間嫌いだ、と思う人・・
そんな人はこの本を読むといいかもしれません。
かく言うわたしがまさにそうだからです。

生きてるからには
楽しいことが多いほうがいい。
ほのぼのしたい。

でも、ニュースなんかで聞くのは
おかしな事件ばかりだったり、
電車内でのマナーの悪さだったり。

人間なんて質が落ちるばかり。
時がたつにつれて世の中住みにくくなるに決まってる。
そう思うことがよくあるから、
物事を深く考えず、
毎日できるだけいやな思いをしないように生きよう、
なんて考えています。

ところが、この本を読んだら
「世の中捨てたもんじゃない」
「人間も捨てたもんじゃない」
と思えました。

やっぱり、「捨てたもんじゃない」人たちと
縁を結ぶためには、
自分にそれを受け取るだけのものを持っておかないと
いけないんじゃないかなー、
と思う。

だから、
ばかと言われても
不器用と言われても、
ばかで不器用なままでいいんじゃないかな?

そんなことを思わせてくれる小説です・・・

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