福音館書店 こどものともの『かさじぞう』の画家
赤羽末吉さんが
絵本について
自分のたどってきた道や考えを書いた本
『絵本よもやま話』。
西荻窪の古本屋 〈トムズボックス〉さんで書いました。
中国の大連で運送屋の小僧をやっているとき
街の古本屋で見つけた
「コドモノクニ」。
表紙が初山滋の絵だったその本で
心とからだに灯りがともったそうだ。
その辺りが絵本との出会い。
『かさじぞう』を描いたころの経緯が
書いてある。
毎年、小正月の10日間ほど、
雪国をさまよってスケッチ、
雨の日は写真。
そのころ、
茂田井武の『セロひきのゴーシュ』に出会ったそうだ。
感動のあまりその出版社 福音館書店の松居直氏に手紙。
瀬田貞二氏の『かさじぞう』をもらった。
中国大陸で暮らした経験からくる確信が
その絵に表現されていることが告白されていて
非常に感動的かつ納得です。
すなわち、
日本の美しさは、
湿気の美しさ、
陰りの美しさと判断したこと。
あの『かさじぞう』では、
その湿気が表現されて必然的に墨絵になったのだと。
絵本ってそもそもなに?
という話は、
読んでみると
ふだん何気なく絵本というものを
手にとってスーッと読んでいる私には
考えさせられるし、考えたくなるテーマのような気がしてきます。
一部の物語絵本は、
原作を絵本の枚数に合わせてチョンチョンと切り、
その下に挿絵をつけたにすぎないという。
しかし、当時、
これからの若い人はレオ=レオーニのような創作絵本にゆくだろうし、
物語絵本も、
絵本でなければできないおもしろさを持つようになるだろうから
そういうワクはなくなるだろう
という。
つまり、みんな創作絵本のようになるだろうと
そのころ赤羽さんは、若山憲さんという
雑誌「月刊絵本」の人に話したそうだ。
だが、実は若山氏のほうは、
絵本は、より単純な内容で
視覚的に展開する「ヒラメク絵本」こそが
純絵本というべきだと考えていたらしい。
文学に頼らず、絵だけで展開し理解させるのこそ
「純絵本」と言うべきだと。
それに対し、赤羽さんは、
それまで既に長い間、
優れた文学と絵との結合は、
子どもの心にどれだけ暖かい響きを残したことか
というのだ。
結局、絵本という花は
いろいろな形で、いろいろな色で
豊かに咲かせてほしいと
赤羽さんは言っている。
完成された文学を絵本にしないほうがいいといっても
斎藤隆介・滝平二郎の『八郎』や
宮澤賢治・茂田井武の『セロひきのゴーシュ』
の絵本は
あったほうがよいにきまっていると考えると
言っている。
ほんとにそうだと思う。
今では、この本が出たころとは比べものにならないくらい無数の絵本が
世の中に存在する。
絵本を心で味わい多くの感動をくみとっていきたいと思う。
最後に、赤羽さんの名作、
大塚勇三作『スーホの白い馬』の表紙絵について
絵本が与える感受性の醍醐味を感じる逸話がある。
幼稚園の子どもが表紙を見て
「スーホは白い馬がかわいくて、そうっとだいてやっているんだね」
と、言ったことだ。
スーホの指先の表情までシカと読みとっていたのだ。