『飛ぶ教室』は、いい場面、いい言葉にあふれているんだけど、
少々、時代がついていたり、
言い回しが読み巧者でないと味わえなかったりで、
読んだらいいのに! と思う年代の今の子どもには
「?」
になってしまう部分がけっこう多い。
そこで、忠実な訳だと伝わりにくい内容を、
ストレートに変えて、短くしている
いわばリメイク版のようなものがあるといいわけで。
ポプラ社の最上一平さんによる『飛ぶ教室』を読んだ。
こういうものを
何と呼ぶのか定かではないけど、
いい場面、いい言葉を味わってほしいけど
全体を読み通すのは難しすぎるなーー
と想像される児童生徒に対して
とても有効だと思います。
『飛ぶ教室』には、第一のまえがき、第二のまえがきとあって、
子どもたちは確実に、このまえがきを読み通すことからして
できないだろう。
それを、まえがきの中のエッセンス的な部分1ページ分だけを残し
カットしている。
そして、外国文学を読むときに、
かなりの割合の大人もそうであるように、
登場人物の名前と性格の紹介が
イラストつきでついている。
イラストがあると想像力が損なわれる、
とこだわる向きもあるだろうが、
物語の入口をはいれなければ意味がないわけで。
私もこの紹介に大いに助けられました。
岩波書店、高橋健二の全訳版は、
この物語を読んでほしい子たちには壁となる
いろんな要素が入っていて
残念ながら途中で挫折することを誘っている。
例えば、リメイク版は、
「あいつは秀才だけどガリ勉じゃない。・・・だれのいいなりにもならない。自分が正しいと思ったらつき進む。」
というところは、全訳版では、
「いやけがさすほど勉強家・・・じぶんが正しけりゃ野性のサルのむれにでも対するようなふるまいかただ」
いろんな箇所で格調高く、言葉として奥行きがあって
他の知識が盛り込まれていたり、読んで手応えがある。
だからこそ、読むことに慣れていない子どもには
ハードルが上がっている。
終わりのほうのこんな部分は、
リメイク版では、
「きみたちが今まさに生活しているこの少年時代の思い出は、
人生のたからなんだ」
という感じなのに対して
全訳版では、
「かんじんなことを忘れないために
永久に心にきざみつけておきたい、この尊いひとときに
わたしは諸君にお願いします。
諸君の少年時代を忘れないように・・・略」
といった感じです。
最上一平さんが、あとがきにいみじくも書いている。
もう一度、5人の少年に会いたくなったら、
今度は完訳の本を読んでみることをおすすめいたします。と。
もっとも、実はこの物語の登場人物たちは
日本でいうと中学生くらいなので、
最上さん訳だと易しすぎるのが本来なんだけど、
小学校中学年くらいからターゲットになった易しさです。
登場人物の少年たちは、
一人一人かかえている事情がある。
ケストナーの原作が書かれたのは1933年。
ヒトラーがナチス政権を打ち立てた年。
そういう暗い空気が感じられたり、
ケストナー自身の体験が、
少年たちのみならず、登場する大人たちにも反映したり
していることは間違いない。
マルティンの言葉、
「ぼくはひどく幸福じゃないよ。・・・しかし、ひどく不幸でもないよ。」
は、当時の人々の心をよく表しているんじゃないだろうか。
幸福を自身の中に見出さなくちゃ
やってられないよ。
いつの時代もそれは同じか。