「よその学校の生徒たちと文通したい人?」
ってある日先生が聞いたから、ノアは手をあげました。
そして相手は同じ年の男の子ドゥディでした。
ドゥディは、自分のことを、こう言います。
初めての人が家を訪ねて来てぼくに気がつくと
ぎょっとしちゃって
見ちゃいけないものを見たっていうふうにする。
そして帰りがけに「ほんとうにお気の毒に」
なんてあいさつしていく人もいる。
脳性マヒで手足が不自由なドゥディは、
手がふるえてペンをしっかり握ることができないので
手紙はワープロで打ちます。
首はななめにかしいでいて、
ボタンで操作する電動車椅子を使うこともできません。
障害のあるドゥディは、
まわりの人にどんなふうに思われているか
愛されているいっぽう、心配かけていることを
よくわかっているのです。
ノアもまた、そんなドゥディを
傷つけたくないし、
だからといって、同情した手紙を書きたくはないと思っています。
文通相手に会ってみたい、でも会うのはこわい
っていうのは、相手が障害があるとかないとかにかかわらない。
けど、ドゥディの場合はその心配がとびぬけて大きい。
会ったらぜったいノアに驚かれる、嫌われるって思っているから。
健康な体でふつうに暮らしている子たちは、
はじめはボランティア精神みたいなものを発揮して
いいことをしているんだって夢中になって
障害のある自分たちとつきあうけど、
そのうちあきて裏切られてしまう、
というのが常でした。
ノアとドゥディが対面して、二人の友情はどうなったか。
読んでいくうちに予測ができるでしょう。
イスラエルの作家の作品、っていったいどのくらい
翻訳されているのか、よくわかりません。
たぶん、数少なそうであり、
違った価値観、違った生活感覚が描かれていそうに思いました。
けれども、微妙なテーマを扱ったこの作品さえ、
日本でわたしたちが考えるのと
感覚が同じです。
心で人や物を見ることのできる人にとっては、
現実は、あれこれ気にして心配しているより
ずっとずっと簡単だということです。
「障害がある、ない」って、どういうことなんだろう?
って、わからなくなります。
目に見える障害、見ただけではわからない障害、
身体、心、
まったく障害がない人っているんだろうか?
とか、思われてきます。