源頼朝が鎌倉に幕府をひらいてから7年後にあたるある夏の日、
九郎次という馬ぬすびとが由比ガ浜で打ち首になった
という記録が、
寿福寺の文庫に残っているという。
その記録はごく短いものであろう。
あるいは、打ち首になったことだけが書かれたものかもしれない。
けれども、九郎次という男が存在したことは
確かだ。
九郎次が、日本のどこかで生まれて育ち、
馬を盗むだけの動機を持って実行に移したことも
確かだ。
この『馬ぬすびと』は、
きっと九郎次という男が
こんな境遇だったにちがいない
と読む者を納得させるストーリーだ。
馬どころで名高い陸奥国の水呑み百姓。
9人きょうだいの末っ子で、上の8人はことごとく死んだ。
死にそこなった九郎次がどんなふうに育ったかは
まあ、考えるまでもないことだ。
そんな暮らしをして、
当然ふるさとが恋しいなどと思ったこともないが、
南部富士といわれる岩手山のすがた、
そして、野馬のすがただけは
思い出すと胸の血がわいてくるほど恋しい。
九郎次は、箱根丸という馬ぬすびとの仲間になる。
箱根丸とて盗人になるような男ではない。
辛い苦しい目にあわされつづけたあげくにそうなったのだ。
日本中、おなじような者だらけ。
その上におっかぶさっているのが、天下をとっているやつとその仲間だ、
と九郎次は思う。
幼いころから夢に見るほどすきな馬。
夢のほかにはよろこびのない世の中。
九郎次は、夢のために命を捨てても惜しくはないと思うようになる。
自分がふるさとでこのうえもなく愛した馬が
いくさで人殺しに駆り立てられている。
「馬を盗むのは、馬をときはなしてやるためだ。
夢をまことにするところまで
追って追っておいまくるのだ。」
「馬ぬすびとがぬすびとか、
頼朝大将のほうがぬすびとか、
いつかわかるだろう。」
その論理にいつの間にか読者は共感しているだろう。
歴史の中の無名の人たちを
その息づかいや表情や声とともによみがえらせてくれる物語だ。
作者 平塚武二は「赤い鳥」同人。
絵は太田大八で、
子どもの九郎次や、馬との日常や、いくさの場面を
その空気とともにわたしたちの目の前に見せてくれています。