グラス詩画集『蜉蝣』についての文章で蕎麦屋で一合のお酒なんか飲みたくなる

ギュンター・グラスが詩画集『蜉蝣』を出版したことについて、
ある方から聞いて知りました。
そして、その方が朝日新聞に書いた文章を
読ませていただきました。
ドイツ文学について、昔かじったことがあるけれど、
もう縁もゆかりもなくなって30年も経ったので、
読んでもわかる自信なし・・。
でも、日本語なので、いちおう「読む」ことはできたというわけで。

『蜉蝣』のなかには、
「老人になって思い出す自身の過去への感慨がある」
と、書いてありました。

この「感慨」は、もっと詳しく言えば、
後悔というほどではないけど、
渋面になったり、
口元を軽くへの字に曲げたりする種類の
「感慨」なのかなー、と思います。

老人でなくても、わたしくらいでも、
これまで生きて来たなかにいっぱいあるその種の「感慨」。

だけど、そのときそのときで、一所懸命考えて判断してしたことだから、
そんなに自分を責めないでもいい。
現在の自分の身の日常茶飯事に触発されて
過去のたくさんの判断を
訂正しようか、と反省したりしなくていい。
自分の過去へのそういう対し方を
「哀愁」と思わなくたっていいじゃないか、っていう気がする。

そのあたりについて、
少しのお酒と少しの肴とともに、
あっさりと話し合えるような人と、ひととき過ごしたい、
なんて思わされる文章でした。

年の暮れは、芝浜・掛け取り、久保田万太郎

サライの付録に落語のCDがついていました。

志ん生の「芝浜」

円生の「掛け取り」

年の瀬の噺ということで季節を楽しめる内容。

はや年も暮れてきました。

年の瀬の雰囲気を味わえる文学は、

久保田万太郎・・

年の瀬をはじめ、冬のイメージがあります。

なんとなく寒々しい明治大正の浅草あたり。

酉の市の様子なんかが描かれたり

着ぶくれた姿で火鉢に当たる市井の人たちが

行き交っていたり。

きのうは冬至。

ちょうど柚子もあったことだし、

うちでも柚子湯にはいりました。

それで、かぼちゃも前の日に安いから買っておいて

ちょうどあったので、食べました。

今回は、ブログで行き来のあるoishippoさんの

トマト缶とサバの水煮缶のお料理にかぼちゃを入れちゃいました。

けっこういけました!

むかしなら、

「日毎に霜はいよいよ白い」

っていう時節ですね。

久保田万太郎作品を上演している

「みつわ会」公演。

今度の三月は

「雨空」

「三の酉」。

都合とお財布が許せば行きたいと思っています。

で、久保田万太郎の俳句集を広げて

どれか年の暮れの句をひとつふたつ載せよう、

と思ってページを繰っていると、

いつの間にか

どんどん句を読み進んでいき、

ブログ記事をアップするまでに

ひどく時間が経過してしまうのでした。

久保田万太郎の年の瀬の句から

ゆく年やしめきりてきく風の音

ゆく年や蕎麦にかけたる海苔の艶

久保田万太郎の句や文章からは

さびしくて美しい、ふつうの人々の息づかいが

伝わってきます。

そこに惹かれていつも心の底にそのトーンを持っています。